第118話「前線」
獣は、二日目の夜に来た。
巡回の前日だった。白い馬車が来るその前の晩。町の外れ、北東の丘の向こうからそれは来た。
最初に気づいたのは、コッツだった。地に伏せて耳を当てていた小僧が、跳ね起きた。
「兄貴。地面が鳴ってる」
俺にも分かった。足の裏に伝わってくる。一定の間隔で地を打つ、重い振動。獣の足音だった。大きい。俺が知るどの獣よりも。
器の底の滴が跳ねた。呼応するように。まるで、旧い知り合いに再会したように。
◇
町は、まだ気づいていなかった。
巡回の支度で浮ついていた。広間には、明日連れていかれる子供たちが集められている。親たちは晴れ着を用意している。誰も、丘の向こうの振動に気づいていない。
「――町に報せるか」と、ヴァンネスが言った。
「報せて信じるか」と俺は言った。「明日は名誉の日だ。その前夜に、よそ者が獣が来ると言って回る。……追い返されるのが落ちだ」
「じゃあ、どうする」
俺は、丘の稜線を見ていた。
まだ姿は見えない。だが、振動は近づいている。町に入るには、あの丘を越えて、北東の門から来るしかない。
「門の外で止める」と俺は言った。「町に入れない。入れれば、家々の間で暴れる。逃げ場のない子供が潰される。……開けた場所で止める。門の外で」
「六人で、か」ガロが言った。
「六人で」
◇
だが、俺はそこにいられなかった。
町の門は広場に近い。広場には盤が三台。門の外に立てば、俺は盤の間合いに入る。三十歩どころではない。門と広場は、二十歩と離れていない。
俺が門の外に立った瞬間、盤が鳴る。町中が気づく。巡回の前夜に盤が鳴れば、教会は、その原因を探す。探せば俺に行き着く。
「隊長が、前線に立てないのか」ガロが、静かに言った。
「立てない」
それは、認めるしかなかった。カルナのときと同じだ。俺はいつも、肝心の場所に立てない。盤が、俺を拒む。
だが、今度は待つ場所を選ぶ余裕はなかった。獣は来る。今夜来る。
「――場所を変える」と俺は言った。「町の南西。盤から一番遠い場所。そこまで獣を誘い込む。門で受けずに、町を迂回させる」
「どうやって獣を誘う」とミレアが聞いた。
俺は、答えなかった。
答えは分かっていた。滴だ。器の底の、この滴が獣を呼んでいる。なら、俺が動けば獣も動く。俺が南西へ回れば、獣は俺を追って南西へ来る。
俺自身が、囮だった。
◇
隊は、動いた。
ガロが先頭。大盾を背から下ろした。この男が盾を構えると、そこが壁になる。二年、何度もその後ろで救われてきた。
ミレアが、薬包を並べ直した。目潰しの粉。止血の布。痛み止め。治療術士の手が戦の前にするのは、殺す準備ではなく、生かす準備だった。
コッツが、南西の地形を読んだ。町の外れ、放牧地の跡。柵の残骸。窪地。罠を仕掛ける場所を、目で拾っていく。
ヴァンネスが、全体を見た。老兵の目が、六人の配置を組み上げていく。誰を、どこに置くか。誰が、囮の俺を援護するか。
そして、リタとシオは。
「――ニラ。二人を頼む」と俺は言った。「南西の、さらに後ろ。荷馬車ごと下がってろ。何があっても、出てくるな」
ニラが、頷いた。手帳を握っていた。
「書くの?」と、リタが聞いた。
「書く」とニラは言った。「全部、書く。……誰が、どう戦ったか。それを、後であなたに読ませるために」
◇
獣が、丘を越えた。
月明かりの下に、その姿が現れた。
四つ脚。だが、馬でも牛でもない。体は黒く、濡れたように光っている。背に、幾つも突起があった。星視盤の水晶に似た、透き通った突起。それが、月の光を鈍く弾いていた。
スピカとは違った。スピカは、光の塊だった。これはもっと獣に近い。肉を持ち、脚を持ち、牙を持つ。だが、その体を貫いて、澱の光が脈打っていた。
星辰の獣。だが、名の付いた星の獣ではない。もっと小さい。もっと若い。生まれたばかりの、澱の塊。
――盤が呼んだ。
俺には分かった。大陸中の盤が、少しずつ地の底の澱を揺り起こしている。その澱の一つが凝って、脚を得た。まだ、スピカほど育っていない。今なら、止められる。
育てば、第二のスピカになる。
◇
「――来るぞ」と俺は言った。
獣が、こちらを見た。
正確には俺を。俺の器の底の滴を。獣の目が俺に向いた。他の誰でもない俺に。
やはり、囮は成立する。
獣が走り出した。四つの脚が地を抉る。まっすぐ俺へ。町ではなく俺へ。
誘い込みは成功していた。
ガロが、前に出た。
「――ここは、通さねえ」
大盾が、月光を受けた。
獣の突進と大盾がぶつかった。
轟音。
ガロの足が、地を削って後退した。一歩。二歩。三歩。だが、倒れなかった。盾は、獣を受け止めていた。
「――今だ! コッツ!」
綱が引かれた。窪地に隠した罠が跳ねた。獣の後ろ脚に、綱が絡む。
前をガロが塞ぐ。後ろをコッツが縛る。
◇
獣が吼えた。
空気が震えた。背の突起が、一斉に光った。星視盤の水晶と同じ光。その光が強くなるほど、俺の器の底で、滴が跳ねる。呼んでいる。獣が俺を呼んでいる。
綱を切ろうと獣が暴れた。後ろ脚が地を蹴る。コッツの罠の綱が軋んだ。もう一本。コッツが、二本目を投げた。だが届く前に。
獣の尾が薙いだ。
コッツが跳んだ。跳んで、避けた。だが、二本目の綱は宙で断ち切られた。
「――駄目だ、綱が保たねえ!」
獣が、前を向いた。ガロの盾に体を預けて押す。ガロの足が削れる。膝が震える。
ミレアが走った。
獣の脇へ。薬包を握って。
「ミレア、下がれ!」とガロが吼えた。
「片目だけ、もらう!」
ミレアが、粉を投げた。獣の片目。だが、獣が首を振った。粉が逸れた。半分しか入らない。獣の片目が、白く濁ったが潰れきらない。
それでも。
半分は削れた。
ヴァンネスの声が飛んだ。
「――左後方! 脚の付け根! そこが、澱の薄いところじゃ!」
老兵の目が、獣の体の光の流れを読んでいた。突起の光は、体を巡っている。巡る光の切れ目。そこだけ、澱が薄い。ヴァンネスは、四十年で初めて見る獣の弱点を、一目で見抜いていた。
だが、その付け根に届く者が。
いない。
ガロは、盾で手が塞がっている。コッツは綱を失った。ミレアは丸腰だ。
届くのは、一人だけだった。
剣を持ち、その付け根に一撃を届かせられる者。
継いだ死者の技で、獣の懐に飛び込める者。
――俺だ。
俺は走り出した。
だが、俺と獣の間には、まだ二十歩あった。そして、その二十歩を詰めるあいだ。
ガロの盾が、限界を迎えようとしていた。
「――リゲル!」
ガロの声が裂けた。
前線が、保つか。
俺が、間に合うか。
二年前、俺は間に合わなかった。ドッズのときも。メイセンのときも。九日走って、一日、間に合わなかった、あの日も。
今度は。
走った。
器の底で、滴が叫んでいた。
――継げ。継げば、間に合う。
俺は、答えなかった。
ただ、走った。




