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継承者は忘れていく ~才無しと蔑まれた狩人は、敵を狩るたび最強に近づき、大切な記憶をひとつずつ失っていく~  作者: あおあお


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第116話「渡る理由」


西岸の街に着いたのは、夜だった。


ミレアは生きていた。


街の集会所を仮の療養所にして、患者を診ていた。俺が入っていくと、汗だくの顔を上げて短く言った。


「――川熱だった」


九割が当たった。


一割は来なかった。


「人から人には、うつらない。汚れた水を飲んだ子から、順に出てる。……水源は?」


「断った」と、俺は言った。「上流の染物工房だ。樋を止めさせた。今日から、川に汚れは入らない」


ミレアが、大きく息を吐いた。それから、また、患者に向き直った。礼も、喜びもなかった。まだ途中だからだ。目の前に、熱で寝ている子が十何人もいた。


◇


その夜、俺は療養所を手伝った。


治療はできない。だが、水を運ぶことはできる。綺麗な水だ。上流の工房より、さらに上の澄んだところから汲んできた水。ミレアが、患者にそれを飲ませる。汚れた水で出た病は、綺麗な水と時間で引いていく。


明け方、一人目の子の熱が下がった。


ミレアが、その額に手を当てて、しばらく動かなかった。それから、次の子へ移った。喜んでいる暇はなかった。だが、その背中は来たときより、まっすぐだった。


九日走って間に合わなかった女が、今度は間に合っていた。


◇


問題は、東岸だった。


三日で、西岸の新しい患者は止まった。水源を断ったからだ。寝込んでいた子も、半分は熱が下がった。


だが、東岸はまだ橋を閉じていた。


病がうつらないことを、東岸は知らない。西岸で患者が減っているのも、知らない。橋の東の袂に、まだ棒を持った男たちが立っている。西岸から誰か来れば追い返す。


「――あたしが、行く」と、ミレアが言った。「うつらないって証明する。あたしは治療術士よ。診た。川熱だった。人からはうつらないって、説明する」


「聞かないぞ」と、俺は言った。


「なんで」


「前にも言った。怖がってる相手には、正しさは届かない。……あんたが東岸に行って、治療術士だと名乗れば、東岸はこう思う。西岸の医者が、橋を開けさせに来た、と。あんたの言うことは、全部、西岸に都合のいい嘘に聞こえる」


「じゃあ、どうすればいいの」ミレアの声が尖った。「西岸の子は、助かった。でも、橋が閉じたままなら、この街は、二つに割れたままよ。東と西が、二度と行き来しない街になる」


俺は、答えを持っていなかった。


◇


その夜、俺は橋の西の袂に立っていた。


石造りの橋。真ん中で、途切れているわけではない。物理的には渡れる。渡れるのに渡れない。東の袂に、棒を持った男たちがいる。それだけで、この橋は閉じている。


恐れが橋を閉じている。


石でも鎖でもなく。


じいさんの声が、頭の中にあった。追い詰めた獣は、逃げるか噛むかしか選ばん。東岸は、追い詰められた獣と同じだ。病という獣に。だから、棒を持って噛む構えをしている。


追い詰められた獣に、正しさは効かない。


効くのは――逃げ道だ。


じいさんは言った。狩人が本当にやるのは、獣が知らん三つ目の道に、先回りして罠を置くことじゃ、と。


三つ目の道。


東岸が、面子を潰さずに、橋を開けられる道。


◇


翌朝、俺は東岸へ渡った。


一人で渡った。棒を持った男たちが、色めき立った。西岸から来たと。


だが、俺は治療術士だと名乗らなかった。医者でも、西岸の使いでもないと言った。


「――旅の、狩人だ」と、俺は言った。「西岸にも東岸にも身内はいない。どっちの味方でもない。……一つ、報せに来た」


男たちが、棒を構えたまま聞いていた。


「西岸の、水源が見つかった。上流の染物工房だ。染めた水、川に流してた。それを、飲んだ子が病んだ。……工房の樋は、止めた。もう、川に汚れは入らない」


「――だから、なんだ」


「あんたらの、恐れてたことは起きない」と、俺は言った。「病は水から出た。人から人には移らない。だが」


俺は、そこで言葉を切った。


「それを、俺が言っても、あんたらは信じないだろう」


男たちが、顔を見合わせた。


「当然だ。俺は、よそ者だ。西岸から歩いてきた。信じろという方が無理だ。……だから、信じなくていい」


◇


「橋を、開けろとは、言わない」と、俺は言った。「あんたらの恐れは、あんたらのものだ。よそ者が、消せるものじゃない。……ただ、一つ頼みがある」


「なんだ」


「東岸にも、医者がいるだろう。その医者を、一人、橋の真ん中まで寄越してくれ。西岸の医者も、真ん中に来る。二人が、真ん中で話す。……橋は、開けなくていい。真ん中で二人が話すだけだ」


「真ん中で話してどうなる」


「東岸の医者が、東岸に報せる。よそ者の俺じゃない。あんたらの医者が、だ。西岸の医者から、症状を聞いて、川熱かどうか、自分の目で判じる。……あんたらは、俺を信じなくていい。西岸を信じなくていい。あんたらの医者だけ信じればいい」


男たちが、黙った。


これは、正しさの話ではなかった。面子の話だった。


東岸は橋を閉じた。三日も。今さら「間違いでした、開けます」とは、言えない。言えば閉じたことが間違いだったと、認めることになる。だから、開けられない。恐れではなく、面子が橋を閉じている。


だから、逃げ道を置いた。


東岸の医者が判じたことなら、東岸は面子を潰さずに、橋を開ける。「病がうつらないと分かったから開ける」ではなく「うちの医者が確かめたから開ける」に、なる。同じ結果でも、決めたのが、よそ者か、身内かで、面子は、変わる。


◇


東岸の医者が、橋の真ん中に来た。


西岸からミレアが来た。


二人は、橋の真ん中で話した。俺は、少し離れて、ていた。何を話しているかは、聞こえなかった。だが、ミレアが症状を順に説明しているのが、身振りで分かった。熱の出方。発疹の順序。三日で下がる子と、下がらない子の違い。


東岸の医者は、初め腕を組んで聞いていた。


半刻ほどして、その腕がほどけた。


一刻して、二人は並んで、川を指さしていた。上流の方を。染物工房の、ある方を。


東岸の医者が、東岸へ戻っていった。


その日の、夕方。


橋の東の袂の棒が、消えた。


◇


橋が開いた。


東岸の医者が、東岸に何と報せたのかは分からない。だが、たぶんこう言ったのだ。西岸の病は、川熱だ。水を直せば終わる。私が確かめた、と。


私が、確かめた。


その一言で、東岸は、面子を潰さずに橋を開けられた。


東岸の連中は、橋を渡って西岸へ薬を運んだ。今まで、渡らせなかった薬を。渡ってみれば、なんということもなかった、という顔で。三日、棒を持って立っていたことなど、忘れたような顔で。


それで、いいと俺は思った。


忘れていい。橋が開いたなら。


◇


発つ前の夜、ミレアが俺の隣に来た。


「――ありがとう、とは言わない」と、彼女は言った。「あんた、東岸に嘘をつかせたでしょう」


「嘘?」


「東岸の医者が、確かめた、っていう体。……本当は、あたしが説明したのに。東岸の医者は、あたしの言うことを、なぞっただけ。なのに、東岸には、自分が確かめたって報せた」


「ああ」


「それ、正しくないわ」


「正しくない」と、俺は認めた。「だが、橋は開いた」


ミレアは、しばらく黙っていた。


それから、言った。


「……あたし、昔なら怒ってた。正しくないって。真実をまっすぐ言えって。……でも、今は分かる。まっすぐ言って、橋が閉じたままより、曲げて橋が開く方がいい。子供が、薬をもらえる方がいい」


「ニラは、どう言うかな」と、俺は言った。


ミレアが、少し笑った。


「あの子は、たぶん両方書くわ。まっすぐ言えなかったことも、橋が開いたことも。……こぼさずに両方」


◇


その夜、ニラは両方書いていた。


東岸の医者が、西岸の見立てを、自分のものとして報せたこと。それで、橋が開いたこと。正しくない方法で、正しい結果が出たこと。


俺は、その手帳を覗かなかった。


だがペンの音が、いつもより長く続いていた。


迷いながら、書いているのだ。どちらもこぼさずに。

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