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継承者は忘れていく ~才無しと蔑まれた狩人は、敵を狩るたび最強に近づき、大切な記憶をひとつずつ失っていく~  作者: あおあお


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第115話「上流」

昨日はお休みしていました。また今日から投稿していきます!

よろしくお願いいたします


川の上流へは、俺一人で行った。


西岸の岸を、北へ。流れに逆らって遡る。ミレアは、西岸の街へ入った。患者を診るために。別れ際、何も言わなかった。言えば湿る。二人とも、狩りと治療の途中だった。


上流を読むのは、獣を追うのと、同じだ。汚れは、必ずどこかから流れ込む。水の色、匂い、岸に溜まる泡。それを辿れば源に着く。じいさんは水も獣も、同じ目で読めと言った。動くものには必ず、出どころがあると。


◇


半日、遡った。


川の水は、上流ほど澄んでいた。西岸の街の前では薄く濁っていた水が、北へ行くほど透き通る。汚れは、街より上で、流れ込んでいる。


昼を過ぎた頃、匂いが変わった。


川の匂いに、別のものが混じった。饐(す)えた、甘い匂い。腐った果実に似ていた。だが、この季節に腐る果実はない。俺は、匂いの濃くなる方へ岸を外れた。


匂いの元は、川に注ぎ込む小さな支流だった。


その支流を遡った。


◇


支流の奥に、建物があった。


石造りの大きな建物。煙突が二本。片方から、白い湯気が、上がっている。建物の裏に、木の樋が何本も、川へ向かって伸びていた。その樋から、濁った水が支流へ流れ落ちている。


饐えた匂いは、そこから来ていた。


染物工房だった。


布を染める。染めた後の汚れた水を、樋で川へ流す。その水が支流を下り、本流に混じって、西岸の街の飲み水になる。


川熱の源だった。


◇


俺は、しばらくその工房を見ていた。


大きい。人が、何十人も働いている。糸を績む者、布を晒す者、染料を煮る者。煙突の湯気は、染料を煮る釜のものだ。


この工房は、悪意で、水を汚しているのではない。ただ、染めた水を、捨てているだけだ。二十年か、三十年か、そうしてきた。川は広い。捨てた水は薄まる。今までは、それで済んでいた。


だが、今年は雨が少なかった。


帰り道に渡った川床の、乾き具合を思い出した。水量が減っている。減った水に、同じ量の汚れを流せば濃くなる。薄まらない。


工房はいつも通り、染めていた。いつも通り捨てていた。何も変えていない。


変わったのは、水の量だった。


◇


分かりやすい話が、また崩れた。


東岸は、間違っている。病はうつらない。それは正しい。だが、誰が悪いのか。


染物工房か。三十年、同じことをして、今年たまたま雨が少なかった。工房の主に罪はあるのか。


雨か。雨に罪はない。


西岸の街か。汚れた水と知らずに、飲んだ。飲むしかなかった。


誰も悪くない。


誰も悪くないのに、西岸の子供が水で死んでいく。


メルクは、悪人でない人間が、悪いことを手伝っていた。カルナは、悪人でない街が、自分から篩っていた。ここは――悪人が、一人もいない。


いないのに、人が死ぬ。


◇


俺は、工房の主に会った。


髪の白い、太った男だった。染物の親方を、三代継いでいる。俺が、川下で病が出ている、この工房の水が原因だと言うと、男は青くなった。


「――わしらの、水が?」


「あんたに罪はない。三十年、同じことをしてきた。今年は雨が少なかった。それだけだ」


「じゃが、川下で子供が」


「死んでる。今も」


男は、椅子に、座り込んだ。


「知らんかった。……本当に、知らんかったんじゃ。わしらは、ただ染めて。汚れた水は、捨てるものだと、親父も、爺さんもそうしとった」


「知ってる。あんたを責めに来たんじゃない」


「じゃが、わしらの水で、子供が死んどるんじゃろう。責められて当然じゃ」


「三十年、川はあんたの水を飲み込んでた。飲み込めるだけの水が、あったからだ。……今年、水が減った。飲み込みきれなくなった。あんたは去年と同じことをしただけで、去年は、誰も死ななかった」


「同じことをして、去年は生きて、今年は、死ぬ」男は、両手で顔を覆った。「そんな、理不尽があるか」


「ある」と、俺は言った。「川は、そういうものだ。獣もそうだ。同じ罠で去年は獲れて、今年は獲れない。……変わったのは罠じゃない。獣の数だ。あんたのせいじゃない。だが、あんたにしか止められない」


「どうすれば、ええ」


◇


俺は、樋を、見た。


川へ、まっすぐ、伸びている樋を。


「――樋を止めろ。染めた水を、川に流すな」


「じゃあ、どこに捨てる」


「捨てるな。溜めろ」


俺は、工房の裏の空き地を指した。


「穴を掘って溜める。汚れた水は、溜めておけば、澱が底に沈む。上澄みは、土に染み込む。……時間はかかる。だが、川には流れない」


「そんな、悠長な」


「悠長でいい」と、俺は言った。「あんたは、急いで捨ててきた。急いで捨てた水が、川下で、子供を殺した。……今度は、急ぐな。溜めろ。溜めて、待て」


男は、樋を、見ていた。三十年、当たり前に、水を流してきた樋を。


「……水を、溜めるだけで済むなら」


「済む」


「なぜ、誰も言わんかった」


「誰も、川下を見てなかったからだ」


◇


その日のうちに、樋は止まった。


職人たちが、空き地に、穴を掘り始めた。染めた水は、その穴へ流し込まれた。川へ注ぐ支流の水が、少しずつ澄んでいくのが分かった。


一日で、川が綺麗になるわけではない。すでに流れた汚れは、下っていく。だが、新しい汚れは、もう、川に入らない。


源は断った。


あとは、ミレアだ。


西岸で今、寝込んでいる子供を、ミレアが診ている。源を断っても、すでに罹った子は治らない。それは、治療術士の、仕事だった。


俺は水源を断てた。だが、俺には、目の前の寝込んだ子を治すことはできない。


見てないから決めない、ではない。見てないなりに、上流を断つ。


見ている者が、下流を治す。


それが、この隊の形だった。


◇


西岸の街へ戻る道で、俺は川を見ていた。


川は、まだ濁っていた。だが、上流の支流は澄み始めている。この濁りは、下っていく濁りだ。いつか、抜ける。


問題は東岸だった。


東岸は、まだ橋を閉じている。病はうつらないと、俺たちは、知っている。ミレアが証明できる。だが、恐れている東岸に、それをどう届けるか。


怖がっている人間に、正しさは届かない。


それを、どうするか。


まだ、答えはなかった。


俺は、西岸の街の灯を目指して、歩いた。


その灯のどこかに、ミレアがいる。一割の病の中に入って、患者を診ている女が。


無事か、どうかは。


まだ、分からなかった。


見てないから、分からない。


だが、信じて歩いた。ミレアの見立てを。九割の川熱を。


カルナで、ニラの目を信じたときと同じように。

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