第114話「幕間・診るということ」
ロウデに着いて、二日目の夜。
ミレアさんは、明日橋を渡る。
西岸へ。熱病の出た、川の向こうへ。九割は川熱で、うつらない。一割は分からない。その一割を確かめるために、ミレアさんは渡る。確かめるには、入るしかないから。
私は、その支度を書いている。
薬包の数。持っていく水。戻る予定の日。……書きながら思う。私はこれを、なぜ書いているのだろう。
◇
記録者は、後で読み返すために、書く。
誰が、いつ、何をしたか。それが分かるように。忘れないように。……誰にでもなく、自分でそう決めた。ヴェルデの窓口で、二年。
でも、今書いているのは、違う気がする。
ミレアさんが、明日橋を渡る。それを、私は書いている。
もし、一割の方だったら。もし、うつる病だったら。ミレアさんは罹る。戻ってこない。……そのとき、この記録は何になる。
ミレアさんが、いつどんな支度をして渡ったか。それが残る。
残って、どうなる。
読み返す人がいる。私が。私だけが。
◇
ヴェイユさんのことを、思い出した。
会ったことはない。リゲルから、聞いただけ。二十二年の記録者。リゲルを狩れる記録を書き上げて、それを大穴に投げ捨てた人。書かないことを選んだ人。
私は逆だ。私は書く。書かずにいられない。
でも、今夜初めて分かった気がする。ヴェイユさんが、なぜ捨てたのか。
書いたものには、力がある。ミレアさんの見立てを書けば、それは証拠になる。間違いの証拠にも、正しさの証拠にも、なる。……書くというのは、その力を、誰かに向けるということだ。ヴェイユさんは、その力をリゲルに向けたくなくて、捨てた。
私は、その力をリタに向けようとしている。
姉の死を、恨まないでいいように。……でも、それは本当にリタのため? それとも、リタに恨まれる姉を、見たくない私のため?
分からない。分からないまま、私は書く。
◇
リゲルの埋め直しのことを、また考えた。
二年、私はリゲルの忘れたものを書いて、埋めてきた。エラの言葉で、それが裏返った。記録は、忘れないためでなく、忘れてもいいためにある、と。だから、もう、毎晩行かなくていい、と。
でも、今日また分からなくなった。
ミレアさんの支度を書くのは、忘れないためでも、忘れてもいいためでも、ない。
私は、たぶん怖いから書いている。
書いていれば、何かしているような気がする。ミレアさんが橋を渡るのを、止められない。西岸の子供の熱を、下げられない。私は、治療術士じゃない。狩人でもない。盤を鳴らせもしない。……私にできるのは、書くことだけ。
だから、書く。
書くことで、何もできない自分を、ごまかしている。
◇
ミレアさんが、火のそばに来た。
薬包を、数え直していた。明日の分。何度も、数えていた。指が、同じ包みを二度、触った。この人でも、こういう夜は手が迷うのだ。
「――ニラ」と、ミレアさんが、言った。
「はい」
「あんた、記録者でしょう」
「はい」
「一つ、頼んでいい?」
私は、ペンを、止めた。
「もし、あたしが、戻らなかったら」
火が、爆ぜた。
「あたしの見立てを、書いといて。川熱だと思った、って。九割、そう思って渡ったって。……間違ってたなら、あたしが、間違えたって書いて」
「……ミレアさん」
「リタに、伝えて。姉さんは、見立てを間違えたんだって。可哀想だから渡ったんじゃない。診なきゃ分からないから、渡ったんだって。……それだけは、正しく残して」
「……なぜ、私に」
「あんたが、一番、正確だから」ミレアさんは、薬包から、目を上げなかった。「あたしが自分で書いたら、言い訳になる。リゲルが書いたら、あいつの解釈が混じる。……あんたは、聞いたことを、そのまま書く。私情を挟まない。だから、あんたに頼むの」
私情を、挟まない。
その言葉が、胸に刺さった。
挟んでいる。今、まさに。私はこの記録をリタのためと言いながら、自分のために書こうとしている。ミレアさんは、それを知らない。私が「そのまま書く女」だと、信じている。
「……私、そんなに正確じゃないです」と、私は言った。
「そう?」
「書くとき、いつも迷ってます。どれを書いて、どれを、こぼすか。……こぼす方を選んだ時点で、もう、私情です」
ミレアさんが、手を止めた。
「――そうか」少し、間があった。「じゃあ、こぼさないで書いて。全部。あたしが、何を言って、何をして、どんな顔で渡ったか。……あんたが、迷わずに済むように、全部残していい」
私は、答えられなかった。
この人は、リゲルと同じことを言っている。第七検定士のいる街で、リゲルが、私に言ったことと。間違えたら書け、と。書いて読ませろと。
みんな、私に、書けと言う。
自分が間違えたときのために。自分が、いなくなったときのために。
◇
私は、ペンを、握り直した。
そして、気づいた。
私が書くのは、ミレアさんのためじゃ、ない。
リゲルの埋め直しが、リゲルのためじゃなくて、私のためだったように。
ミレアさんの見立てを書くのも、ミレアさんのためじゃ、ない。
リタのためだ。
姉が戻らなかったとき、リタが、「なぜ姉は渡ったのか」を、知れるように。可哀想だからじゃない、診るためだ、と。……その一行が、あればリタは、姉の死を恨まずに済むかもしれない。
記録は、死んだ人のためにはない。
記録は、残された人のためにある。
エラの言葉が、もう一度、裏返った。わすれてもいい。かいてあるもん。……あれは、忘れる本人のためじゃない。忘れた本人を、まだ覚えている、周りのために、あったんだ。
◇
「――書きます」と、私は言った。
「ありがと」
「でも、ミレアさん」
「なに」
「戻ってきて。……その方が、いい記録になるから」
ミレアさんが、少し、笑った。
「上手いこと、言うわね」
「記録者だもの」
ミレアさんは、薬包を袋にしまった。今度は、指が迷わなかった。
◇
その夜、私は手帳に、一行だけ書いた。
支度の数でも、薬包の量でもなかった。
『ミレア。川熱だと見立て、西岸へ渡ると決めた。診なければ分からないから。可哀想だからではない。――リタへ』
リタへと書いた。
この一行は、リタがいつか読むための一行だ。読める年に、なったら。字を覚えたら。
リタは、まだ字が読めない。
でも、私が覚えている。書いてある。だから、その日が来たら私が読む。
私が、いなくなっていたら――誰かが、読む。
そのために、書いてある。
◇
火が、小さくなった。
リタと、シオが、一枚の毛布で眠っていた。二人とも、名前を一度失くした子。片方は姉の名を、片方は自分の名を。
明日、その姉が橋を渡る。
私は、手帳を閉じた。
五十三人分の名前と、たった一行の「リタへ」を、抱えて。
少しだけ、重くなった。
でも、その重さの持ち方を、私はもう知っている。




