第113話「橋番の街」
ロウテ編開幕です
次の街は、川の街だった。
カルナを出て、九日。痩せた草原を抜けると、地面が緩やかに下り始めた。下りきったところに大きな川があり、その両岸に、街が跨っていた。
街の名は、ロウデといった。
川は広く、流れは速い。両岸を繋ぐのは、石造りの橋が、一本きり。その橋の袂に関所があり、渡るのに銭を取られた。橋番の街だ。川の東と西を行き来する荷は、全部、この橋を通る。通れば、銭を落とす。この街は、橋一本で食っていた。
◇
コッツが、先に入って戻ってきた。
「兄貴。ここは、盤はねえ」
荷馬車の陰で、隊の空気が少し緩んだ。
「教会の巡回も、当分、来た形跡がねえ。橋番の街だからな。子供より、荷の勘定で忙しい。……ただ」
コッツは、そこで言葉を切った。この小僧が言葉を切るのは、拾った話が、綺麗に纏まらないときだ。
「橋が、渡れねえ」
「銭が要るんだろう。払えばいい」
「そうじゃねえ。……三日前から、東岸の連中が、橋を封鎖してる。西岸には渡らせねえ。銭を積んでも、通さねえ」
「なぜ」
「病だ」
◇
話は、こうだった。
十日前、西岸で熱病が出た。子供から始まって、大人にも広がった。西岸の医者は手に負えず、東岸に助けを求めた。
東岸は、橋を閉じた。
病が橋を渡って東岸に来るのを、恐れたのだ。西岸の患者は、東岸の医者に診てもらえない。薬も、渡らない。橋の東の袂に、東岸の男たちが棒を持って立っている。西岸から誰か来れば、追い返す。
「西岸は、見捨てられたのか」と、俺は聞いた。
「そうだ」コッツは、頷いた。「西岸の連中は、橋の西の袂に、集まってる。渡らせろって。……だが、東岸は、動かねえ。病が終わるまで、閉じたままだ、と」
ミレアが、荷台から降りた。
治療術士だ。この女は、こういう話を黙って聞いていられない。
「――熱病って、どんな」
「知らねえよ」コッツが言った。「俺は、医者じゃねえ」
「症状。誰か、言ってなかった?」
「……高い熱が出て、三日で発疹が出るって。子供が、先にやられるって」
ミレアの顔が、変わった。
「――それ、うつるやつじゃない」
「は?」
「発疹が出る熱病でも、うつるやつと、うつらないやつがある。三日で発疹、子供が先。……それ、たぶん、川熱よ。汚れた水を飲んで出る。人から人には、うつらない。水からうつるの」
部屋が、静まった。
「東岸は、橋を閉じる必要が、なかったってこと?」と、ニラが、静かに聞いた。
「閉じる必要が、なかった」ミレアが言った。「西岸の水源が汚れてる。それを直せば終わる。人が渡っても、病は渡らない。……東岸は、うつると思って閉じた。でも、うつらない」
◇
俺は、川を見ていた。
広い、速い流れだった。橋が、一本。その袂に、棒を持った男たち。橋の向こうに、渡らせろと叫ぶ、西岸の人影。
分かりやすい話だ、と思った。
東岸は間違っている。病はうつらない。橋を閉じる必要はない。ミレアが、それを証明できる。治療術士が、東岸に、そう言えばいい。閉じる必要はないと。
分かりやすすぎる。
ガロの声が、頭の中で鳴った。理屈が通りすぎるときは、どっかで間違えてる。
俺は、もう一度川を見た。
東岸の男たちは、棒を持っていた。だが、その顔は悪人の顔ではなかった。怯えていた。橋の向こうから来るものを、恐れていた。恐れている人間は、正しい話を聞かない。恐れている人間に「うつらないよ」と言っても、届かない。恐れは理屈より強い。
メルクの街を、思い出した。あの街は、悪人でない人間が、悪いことを手伝っていた。ここも、同じだ。東岸の連中は、悪人ではない。ただ怖いのだ。
怖い人間に、正しさをぶつけても。
トゥーレの離れで俺がしくじったときと、同じことになる。
◇
「――ミレア」と、俺は言った。「あんたが東岸に行って、うつらないと言っても、聞かないぞ」
「なんで」
「怖がってる相手には、正しさは届かない。あんたが治療術士だと名乗れば、なおさらだ。よそ者の医者が、渡らせろと言ってる、としか聞こえない。……東岸は、あんたを西岸の回し者だと思う」
ミレアが、黙った。
「じゃあ、どうするの。見捨てるの? 西岸の子供が、水で死んでいくのを」
「見捨てない」
俺は、川の西岸を見た。
「西岸の水源を直す。うつる病を止めるんじゃない。うつらない病の、元を断つ。……水が綺麗になれば、新しい患者は出ない。患者が増えなくなれば、東岸はいずれ気づく。橋を閉じても、閉じなくても、同じだったって」
「それには、何日かかるの。今、寝込んでる子は」
「それは、あんたの仕事だ」と、俺は言った。「西岸の患者は、あんたが診る。俺は、水源を断つ。……二つ、同時にやる。メルクと同じだ」
◇
だが、問題があった。
俺は、西岸に渡れる。盤のない街だ。器は鳴らない。
だが、水源を断つには、川の上流に行かなければならない。汚れが、どこから流れ込んでいるかを、突き止める。それは、狩人の仕事だ。獣の通り道を読むように、水の通り道を読む。
問題は、ミレアだった。
西岸の患者を診るには、ミレアが西岸に入らなければならない。西岸には入れる。橋の西側だ。東岸が封鎖しているのは、西から東への通行だけだ。
だが、ミレアが西岸に入れば――もし、東岸が正しかったら。
もし、これが川熱ではなく、本当に、人から人へうつる病だったら。
ミレアは、感染する。
「――ミレア」と、俺は言った。「あんたの見立ては、確かか」
「たぶん」
「たぶん、か」
「診てないもの」彼女は、言った。「まだ、患者を、一人も診てない。話を聞いただけ。……川熱だと思う。九割、そう。でも、診るまでは分からない」
俺は、この女を見た。
九割、川熱。一割、分からない。その一割の中に、人から人へうつる病が、含まれている。
西岸に入って、患者を診れば、確かめられる。だが、確かめるためには、入らなければならない。入って、もし一割の方だったら、ミレアが罹る。
見てから決める、ができない。
入らなければ、見えない。見るためには、入らなければならない。
◇
「行くわ」と、ミレアが言った。
「一割だぞ」
「治療術士だもの」彼女は、荷から薬包を、まとめ始めた。「診なきゃ始まらない。九割は川熱。それを信じる。……あんただって、そうでしょう。ニラの目盛りを信じて、五歩まで近づいた」
俺は、答えられなかった。
その通りだった。俺は、カルナで見ていないものを賭けた。ニラの目を信じて。
今度は、ミレアが自分の見立てを賭ける。
「違うのは」と、ミレアは言った。「あんたが賭けたのは、ニラの目。あたしが賭けるのは、あたし自身の目よ。……こっちの方が、まだ、まし。自分の見立てで、自分が罹るなら諦めがつく」
彼女は、薬包を袋に詰め終えた。
「あんたは、水源を断って。あたしは、患者を診る。……九日走って、間に合わなかったのは、もうたくさん」
リタが、荷台からその背中を見ていた。
姉が、また走ろうとしている。今度は、九日ではなく、橋を一本。だが、その橋の先に、一割の、見えない病が、待っているかもしれなかった。
「――シオを頼むね」と、ミレアは、リタに言った。
リタが、頷いた。
意味を分かっているのか、いないのか。ただ頷いた。




