第112話「二つの椀」
カルナを出て、六日。
塩の平地は、三日で終わった。四日目から、地面に草が戻った。まばらな痩せた草だ。だが、緑を見るのは、久しぶりだった。塩田の白さに灼かれた目に、その緑は水のようにしみた。
五日目に、小さな川を渡った。
荷馬車を止めて、隊は水を飲んだ。塩の街では、水は貴重品だった。飲めば腹を下すからと、子供に飲ませない街だった。ここでは、川がただ流れている。汲んでも汲んでも減らない水を、シオはしばらく、信じられない顔で見ていた。
◇
シオは六日で、少しずつ変わってきた。
最初の二日は、口をきかなかった。三日目に、ガロの塩汁を、両手で持って飲むようになった。四日目に、リタの後をついて歩くようになった。
リタが、シオにいろいろ教えていた。あれは鳥、これは草、あの雲は雨になる。世界のすべてに名札を付けるようなあの聞き方を、今度はリタがする側に回っていた。姉を忘れた子が、名前を忘れた子に、名前を教えている。
ミレアは、それを遠くから見ていた。手当てを急がなかった。シオの手は、まだ、鉤のままだ。だが、この女は体より先に、心が緩むのを待っているらしかった。治療術士のくせに、と俺は思う。だが、たぶんそれが正しい。
◇
六日目の夕、隊は街道の脇で火を焚いた。
ガロが、鉄鍋を火にかけた。メイセンの鍋だ。旅のあいだ、この男は一日も欠かさず、この鍋で何かを煮る。今日は川で採れた小魚と、乾かした根菜。塩を一つまみ。いつもの味だ。
椀が配られた。
ガロは、いつも同じ順で配る。ヴァンネス、コッツ、ミレア、俺、それから自分。二年、変わらない順だ。
だが、今日は、椀が二つ増えていた。
リタと、シオの分だ。
ガロは、その二つを最後に、自分の手前に置いた。リタの椀は少し浅い。シオの椀は、取っ手のない、両手で持てる形のものを選んでいた。いつのまに、そんな椀を荷に入れていたのか。
俺は、その二つの椀を見ていた。
◇
二つの椀。
その言葉が、俺の中で別のものと繋がった。
湯呑みを、二つ並べる癖。
ニラが帰ったあと、俺の体が勝手にやる、あれのことだ。じいさんの小屋で暮らしていた頃の名残らしい。俺は、覚えていない。体だけが覚えている。心が抜けて、動作だけが残っている。
ガロが、椀を二つ増やした。
それは、この隊が二人、増えたということだ。数が増えた。飯が増えた。旅は遅くなる。
だが、ガロは何も言わずに、椀を二つ足した。取っ手のない椀を、わざわざ選んで。
これは、俺の湯呑みとは逆だった。
俺の二つは、失ったものの、名残だ。いた誰かがいなくなって、なお体が並べてしまう、空の湯呑み。
ガロの二つは、増えたものの証だ。いなかった誰かが、加わってその分、椀が増える。
同じ二つなのに。
片方は、引き算で。
片方は、足し算だった。
◇
「――何、見てんだ」
ガロが、俺の視線に気づいた。
「いや」と、俺は言った。「椀が増えたな、と」
「ああ」ガロは、鍋をかき混ぜた。「重いか」
「いや」
「重いだろ。荷が二人分増えた。飯も二人分だ。旅は、その分だけ遅くなる。二百の街を回るんだろう。一人増えるたびに、その日が、遠のく。……お前、隊長だからな。それを数えるのが仕事だ」
「数えた」と、俺は言った。「重い。荷も飯も遅くなる日数も、全部数えた。……そのうえで、いいと言ってる」
ガロが、少し笑った。
「そうか」
「あんたは、重いと思わないのか」
「思うさ」大盾使いは、鍋から、椀に注いだ。「思うが、俺は、椀を増やす方が好きだ。……減らすのは、もうたくさんだ」
男は、そこで手を止めた。
四年前、この男は椀を四つ減らした。娘の薬代のために隊を売って、四人死なせた。減らす痛みを、この男は俺より深く知っている。
「増やせるうちは、増やすさ」と、ガロは言った。「重いって文句を言いながら、な」
◇
火の周りで、飯が始まった。
シオが、両手で椀を持った。取っ手のない椀を。ガロが選んだ椀を。鉤の手でも、両手でなら持てる椀を。
シオは、それに、気づいていない。ただ、持ちやすいと思っている。
気づかないように、ガロは選んだのだ。
リタが、隣で汁をすすった。それから、シオに何か言った。聞こえなかったが、シオが小さく頷いた。
ニラは、少し離れて座っていた。手帳を膝に置いて。だが、今日は開いていなかった。ただ、火を見ていた。
俺は、その横に座った。
「――書かないのか」
「今日は、いい」ニラは、言った。「書くことが、多すぎる日は、書かないの。……こぼれるから」
「こぼれる?」
「うん。全部書こうとすると、一番大事なやつが、こぼれる。……だから、こういう日は、一個だけ、心に留めて、あとはこぼす」
「今日の、一個は」
ニラは、火を見ていた。
それから、言った。
「――椀が、二つ増えた」
俺は、彼女を見た。
「私も、それを見てた」と、ニラは言った。「ガロさんが、取っ手のない椀を、選んでたところ。……あれは、記録より、心に置いておきたい」
◇
夜が、更けた。
子供たちが、先に眠った。リタとシオが、一枚の毛布を、分け合って。ミレアが、その上にもう一枚かけた。
火が、小さくなった。
俺は、寝る前にいつもの儀式をした。
名前を、唱える。
母。セラ。父。ドルク。じいさん。ベテル。ガロ。ミレア。コッツ。ヴァンネス。ドッズ。ヘズラ。メイセン。ロコ。ジフ。三十一人。ミナ。トト。サラ。四十一の名前。名前の分からない六人。マナ。エラ。ヨナ。リノ。リタ。ニラ。
そして――シオ。
一つ、増えた。
唱える名前が一つ増えるのは、久しぶりだった。ここのところ、増えるのは、失った名前ばかりだった。もう感情の出てこない、痛むだけの名前ばかり。
だが、シオは違った。
シオは今日、そこで両手で椀を持って、飯を食っていた。生きている。目の前で生きている。
唱える名前が、目の前にいる。
それが、どれだけ久しぶりのことか。
俺は、その名前をもう一度、小さく唱えた。
シオ。
塩で手を壊された子。名前を忘れて、自分でつけ直した子。
痛まなかった。
その名前は、唱えても胸が痛まなかった。
まだ、この子の記憶を俺は継いでいないからだ。継げば、いつか痛むようになる。この子が大事になって、大事になった分だけ、失うのが怖くなる。
だが、今は。
まだ痛まない。
痛まない名前を、唱えられる夜は、久しぶりだった。
俺は、それをしばらく味わってから、目を閉じた。




