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継承者は忘れていく ~才無しと蔑まれた狩人は、敵を狩るたび最強に近づき、大切な記憶をひとつずつ失っていく~  作者: あおあお


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第111話「塩の名前」


カルナを発つのは、三日後に、決めた。


すぐには、発てなかった。ニラが組合の帳面を写すのに、三日、要るからだ。二十年分の上納の記録は、思ったより長かった。ニラは旅籠の卓に張りつき、朝から夜まで写し続けた。ヴァンネスが街の宿から少しずつ運んでくる原本を、一枚も取りこぼさずに、三冊目の手帳の新しい頁へ移していく。


その三日で、俺たちは一つ、決めなければならないことがあった。


塩田の子をどうするか。


◇


その子は、二日口をきかなかった。


旅籠の隅に膝を抱えて座り、鉤になった手を袖の中に隠していた。飯は食べた。ガロが鉄鍋で煮た塩汁を椀に注いで、黙って前に置くと、少し待ってから両手で椀を持って飲んだ。両手で持つのは、片手では、指が回らないからだ。


ミレアは、無理に喋らせなかった。治療術士のくせに、手当てもすぐにはしなかった。ただ、朝と晩に、塩汁をその子の分も作らせた。


三日目の朝、俺はその子の隣に座った。


近づいても、その子は逃げなかった。逃げる場所が、もうないからだ。塩田には戻れない。街にも居場所はない。この子の後ろの道は、ミレアが連れてきた瞬間に、消えている。


「――名前は」と、俺は聞いた。


その子は、しばらく、答えなかった。


それから、小さな声で、言った。


「……ない」


◇


ないはずが、ないと俺は思った。


塩田の子でも、名前はある。低く出た子でも、生まれたときには誰かが名づける。名前がなければ、桶の割り当ても飯の記録もつけられない。


「番号なら、ある」と、その子は言った。俺の考えを、読んだように。「さんびゃくにじゅうろく。桶に、書いてある。それでよばれる」


俺の、背中が冷えた。


番号。


〈星の間〉の子供たちと、同じだった。三十番。九番。十七番。ミナも、トトも、サラも、寝台では番号で呼ばれていた。爪で裏板に自分の名を刻むまでは。


「――昔は、名前があったろう」


「あった」


「覚えてるか」


その子は、袖の中の鉤の手を握った。


「……わすれた」


◇


俺は、その言葉をしばらく聞いていた。


忘れた。


八つの子が、自分の名前を忘れた。


リタと同じだった。エラと同じだった。だが、この子のは澱を注がれたからでも、姉を継いだからでもない。ただ、番号で呼ばれ続けて、名前を呼ぶ人間が、一人も、いなくなったから忘れた。


使われない名前は、消える。


澱がなくても、星継がなくても。呼ばれなければ、名前は忘れられる。


この街は、そういう街だった。低く出た子から、名前を呼ばなくなる街。番号で足りる街。


「――ニラ」と、俺は言った。


卓で写しを続けていた女が、顔を上げた。


「その子の番号、あんたの手帳に、あるか。上納の記録に」


ニラの手が、止まった。


「……上納は、高く出た子。この子は、塩田に落とされた子。逆だから、上納の帳面には、載ってない。でも――」


彼女は、写しの束を繰った。速かった。二十年分の紙のどこに何があるかを、この女は三日で頭に入れている。


「配分の記録なら、ある。どの子を、どの塩田に、何年に配ったか。……三百二十六番」


ニラの指が、一枚の紙で、止まった。


「五年前。第三塩田。配分。……名前は、書いてない。番号だけ」


◇


「名前を、書いてないのか」と、俺は聞いた。


「うん」ニラは、頁を見たまま、言った。「塩田の配分は、全部、番号。……名前で書いたら、書いた人が、覚えちゃうから」


部屋が、静まった。


ガロが、鉄鍋の縁を、撫でていた。


「覚えちゃう、って」ミレアが、掠れた声で、言った。「どういう意味」


「トゥーレと、逆」と、ニラは言った。「メルクの記録係は、名前を書くために、顔を見た。見た子を忘れられなくなった。……この街は、逆なの。覚えないために、名前を書かない。番号だけにする。番号なら、何番が塩田で潰れても、書いた人の胸は痛まない」


ニラは、写しの束に目を落とした。


「二十年、この街の記録係は、痛まないために、番号で書いてきた。……上手なやり方よ。本当に上手」


その声が、平らだった。


平らにしなければ、続けられないときの声だ。


◇


俺は、鉤の手の子に向き直った。


「三百二十六番」


その子が、顔を上げた。


番号で呼ばれて、反応する。八年、そうやって、呼ばれてきたからだ。名前より、番号の方が、この子には早く届く。


それが、たまらなかった。


「……その番号は、もう要らない」と、俺は言った。「あんたは、塩田の桶をもう運ばない。だから、桶の番号は要らない」


その子は、俺を見ていた。意味が分からない顔だった。


「新しい名前が要る」


「……なまえ」


「ああ」


「……つけていいの」


その子は、そう聞いた。


誰かに、つけてもらうものだと、思っている。名前は、上から配られるものだと。番号と同じように。


「――自分で、つけてもいい」と、俺は言った。


その子は、長いこと黙っていた。


◇


それから、鉤の手を袖から出した。


初めて、その手を隠さずに見せた。四本の指が、途中で、鉤のように曲がっている。塩が腱を引いた手だ。二年経てば、開かなくなる手だ。


その子は、その手を見ていた。


見て、それから言った。


「……シオ」


「え」


「シオ、がいい」


塩、とこの子は言った。


自分の手を、こんなにした塩を。この街で、自分を番号にした、塩を。それを名前に選んだ。


「――なぜ、それを」と、俺は聞きかけてやめた。


聞くべきでは、なかった。


この子が選んだ。それで、いい。ヨナが、石を選んだのと、同じだ。大人が、間違いだと言えるものではない。


◇


「シオ」と、ニラが言った。


手帳を、開いていた。上納の帳面ではない。三冊目の、名前の頁だ。四十七人と、マナと、エラ、ヨナ、リノと、ニラ自身のその後ろ。


「フルネームは?」


「……ふるねーむ?」


「もう一つ、名前。シオの、後ろにつく名前」


その子は、首を、傾げた。二つも名前があるということが、分からないらしい。塩田の子に、姓は、要らない。番号に、姓はないからだ。


「――なくても、いい」と、俺は言った。「一つでいい。シオだ」


ニラが、ペンを走らせた。


『シオ。八歳。カルナ第三塩田。番号三百二十六。塩で手を壊された。名前を忘れていたので、自分で、シオとつけた。……忘れません』


書いて、ニラは、その子に頁を見せた。


シオは、字が読めなかった。エラと同じだった。


「読めない」と、シオは言った。


「うん」ニラは、言った。「私が読める。……シオ、って書いてある」


「……シオ」


「そう」


その子は、読めない字を、見ていた。


自分の新しい名前が、初めて字になったところを。


「もういっかい」と、シオは言った。


ニラが、読んだ。


「シオ」


◇


発つ日の朝、塩田に、朝日が差した。


白い平地が、一斉に光った。何万年も前の湖の底が、今日も朝日を全部、跳ね返す。


荷馬車が、動き出した。


シオは、荷台の縁に座っていた。エラが、リノが、ヨナが、そこに座ったのと同じ場所だ。だが、シオは運び屋に渡さなかった。この子には、行く先が、い。名簿にない子を引き取る場所は、大陸のどこにもない。トゥーレが、二十年前に、思い知ったことだ。


だから、シオは〈鉄樹〉が連れていく。


荷が一つ増えた。飯が、一人分増えた。旅は、その分遅くなる。二百の街を回るのが、さらに遠くなる。


それでも、ガロは何も言わなかった。ただ、鉄鍋を、シオの手が届く場所に置き直した。両手で椀を持つ子の、その両手が届く場所に。


リタが、シオの隣に座った。


二人は、喋らなかった。リタは十歳で、シオは八つで、どちらも、名前を一度失くしている。片方は姉の名を、片方は自分の名を。


荷馬車が、塩田を抜けた。


白い光が、後ろに遠ざかっていく。


シオが、一度だけ振り返った。


自分の手を、壊した街を。自分を番号にした街を。自分の、新しい名前の由来になった街を。


それから、前を向いた。


もう、振り返らなかった。

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