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継承者は忘れていく ~才無しと蔑まれた狩人は、敵を狩るたび最強に近づき、大切な記憶をひとつずつ失っていく~  作者: あおあお


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第110話「帳面の底」


ヴァンネスが、写しの束を卓に置いた。


塩を吸った卓の板が、紙の重みで、わずかに軋んだ。三日ぶんの写しだ。老兵は、この街の組合所で下働きの老人に酒を奢り、計量の見習いに昔話を聞かせて、帳面の在り処に近づいた。剣も脅しも使わない。四十年、大陸を歩いた男のやり方だ。


「先に、飯を食わせろ」と、ヴァンネスは言った。「話は、長い」


だが、俺はその束より先に、ミレアの後ろの子を見ていた。


手の指が鉤に曲がった八つの子は、戸口の陰から動かなかった。旅籠の土間に、一歩も入ってこない。ここが安全な場所かどうか、まだ、決めかねている顔だった。塩田の子は、知らない大人を信じない。信じて損をした回数を、八年ぶん体で覚えている。


「――勝手に、連れてきたわ」


ミレアが言った。挑むような声だった。


「叱るなら、叱って。あたし決めた。見てないあんたじゃなくて、見てたあたしが」


俺は、叱らなかった。


叱る資格が、この件に関して俺にはなかった。


◇


「その子は、桶を置いてきたのか」と、俺は聞いた。


ミレアの顔が、一瞬、止まった。


「……どういう意味」


「今日は市の日だ。塩田は、休みじゃない。この子が、あんたについてここまで来たってことは、今日ぶんの桶を、運んでない。……ってことは、この子は今日の飯を、もらえない」


ミレアが、黙った。


「連れてきたのは、いい。だが、連れてきた瞬間に、この子の後ろの道は、消えてる。塩田には、もう、戻れない。無断で持ち場を離れた子を、この街は、二度は使わない」


「……分かってる」


「分かってて、連れてきたなら、いい。それは、あんたが、この子の全部を、背負ったってことだ。……そうじゃなく、可哀想だから連れてきたなら」


俺は、そこで言葉を切った。


「トゥーレと、同じことになる」


◇


ミレアの目が揺れた。


メルクの記録係の名を、この女は、知っている。二十年前、八つのマナを可哀想だからと助けようとして、街道で死なせた男の話を。ニラが、手帳に書いた話を。


「……あたしは」ミレアの声が、掠れた。「あたしは、この子を、どうすればいいの」


「分からない」と、俺は言った。「俺には、分からない。……だが、一つだけ言える。この子を、あんたの後悔で動かすな。リタのときの後悔で、この子を埋めるな」


ミレアが、息を呑んだ。


リタ、という名を、俺が出したからだ。


九日走って、一日、間に合わなかった妹。もう注がれた後だった妹。この女が二年、背負ってきた、たった一つの「間に合わなかった」。それを、この八つの子で、埋め直そうとしていないか。俺は、そう聞いた。


残酷な問いだ、と自分でも思った。


だが、見ていない俺にできるのは、ミレアが見ているものの裏側を指すことだけだった。


◇


「――違う」


ミレアが、言った。


顔を、上げていた。揺れは、止まっていた。


「リタのためじゃない。この子のためよ。……あたし今日、塩田でこの子の手を、もう一回見たの。指の間に、塩が固まってた。取ろうとしたら、痛がった。取れなかった。……このまま二年経ったら、この手は、二度と開かない。飯のために桶を運んで、桶を運ぶ手が、飯を食う手を潰していく」


彼女は、鉤の手の子を、振り返った。


「それを見た。あたしは、治療術士なの。治せる手が、目の前で、壊れていくのを見た。……リゲル。あたしが背負ったのは、後悔じゃない。この手よ。この目の前の手なの」


俺は、その子の手を、見た。


遠くて、よく見えなかった。戸口の陰は暗く、子供は鉤の手を、体の後ろに隠していた。


俺には、見えない。


ミレアには、見えている。


それが、この隊の正しい形だとガロが言った。見てる奴と、見てねえ奴が、両方いる。だから隊なんだと。


「――分かった」と、俺は言った。「その子は、隊で預かる」


◇


それから俺は、ヴァンネスの束に目を移した。


「帳面は、何を吐いた」


老兵は飯の椀を置いて、写しの一枚目を指で叩いた。


「この街の組合はな、二十年前に、教会から盤を三台、買った。ここまでは、コッツの調べた通りじゃ。……問題は、その買い方じゃ」


「金で買ったんだろう」


「金で買った。じゃが、教会は、盤をただでは売らん。売った先に、条件を付ける」老兵の指が、写しの数字の列を、なぞった。「毎年、決まった数の『適合の器』を、教会に納めること。それが、盤を持ち続ける、条件じゃ」


俺の背中が冷えた。


「……納める?」


「この街は、二十年、教会に子供を売り続けとる。市の日に格付けした子のうち、飛び抜けて高く出た子を、年に、二人か三人。リディアへ、送っとる。組合の帳面に、載っとった。『上納』とだけ、書いてな」


◇


部屋が、静まった。


塩の壁が、油灯を鈍く返していた。


俺は、写しの数字を見た。読めない。だが、ヴァンネスが指す列は、二十年、途切れずに続いていた。


「――待て」と、俺は言った。「じゃあ、この街の格付けは」


「二重じゃ」ヴァンネスが、言った。「低く出た子は、塩田へ。街のためにな。……高く出た子は、教会へ。上納のためにな。……この街の盤は、二つの篩を、同時にかけとる。下と上と、両方から子供を抜いとる」


教会は、外から来る。


ヴァンネスは、カルナに着いた日、そう言った。年に一度、白い馬車が来て三人連れて帰る、と。


だが、違った。


この街には、白い馬車は来ない。来る必要がない。


街が自分で、高く出た子を選んで、送っている。二十年、感謝もされずに、命令もされずに。盤を持ち続けるという、ただ、その一点のために。


「……なぜ、盤を手放さない」と、俺は言った。「上納が嫌なら、盤を教会に返せばいい」


「返せんのじゃ」


老兵は、写しの最後の一枚をめくった。


「盤がなければ、この街は、格付けができん。格付けができなければ、誰を塩田に落とすかを、決められん。……この街の塩は、格付けで回っとる。低い子を、安く塩田で使うことで、儲けが出とる。盤を返したら、その仕組みが止まる」


ヴァンネスは、俺を見た。


「この街はな、坊主。子供を上納する痛みと、塩で儲ける甘みを、天秤にかけて、二十年、甘みを選び続けとる。……教会に脅されとるんじゃない。教会と組んどるんじゃ。自分から」


◇


俺は、卓の写しを見ていた。


メルクとは、違う。


メルクの養育院は、教会の巡回に、篩われる側だった。トゥーレは、篩われる子を救おうとして二十年、悔いていた。


だが、カルナは違う。


この街は篩う側だ。教会と、同じ側に立っている。低い子を塩田に沈め、高い子を教会に売って、その両方で儲けている。


篩われる子には、記録係のトゥーレがいた。だが、篩う街には、トゥーレはいない。


篩う側に、悔いている人間はいない。


いるとすれば――それはいま戸口の陰にいる、鉤の手の子のような。篩われて、塩田に落とされた側だ。


俺は、その子をもう一度見た。


子供は、まだ土間に入ってきていなかった。


だが、さっきより半歩、前に出ていた。


◇


「――ニラ」と、俺は言った。


ずっと卓の隅で手帳を開いていた女が、顔を上げた。


「この写し、全部、あんたの手帳に移せるか」


「……上納の記録を?」


「二十年分の、上納の記録だ。何年に誰を何人教会に送ったか。組合の帳面に、載ってる。……これは、メルクの偽の病状書と、逆だ。あれは、記録を、消すためのものだった。これは」


俺は、言った。


「記録を、遺すためのものだ」


ニラの手が、止まった。


「教会は、〈星の間〉の異変を公表してない。四十七人が消えたと言えば、四十七人がいたと認めることになるからだ。……だが、この帳面は、違う。これは街が自分で書いた。自分の手で、二十年『上納』と書き続けた。教会が隠したくても、隠せない。街の、組合の金庫の中にある」


「……これを、写してどうするの」


「世に出す」と、俺は言った。「いつか。俺たちが、大陸を回って、こういう帳面を集めて。……教会が、澱を注いでるってことは、証明できない。〈星の間〉は、教会が握ってる。だが、街が子供を上納してるって記録なら、街の数だけある。集めれば線になる」


ヴァンネスが、写しの束を俺の方へ押した。


「……坊主。それは、二百の街を、回るってことじゃぞ」


「ああ」


「何年かかる」


「分からない」


俺は、鉤の手の子を見た。


その子の手が、二度と開かなくなるまでに、二年。


二百の街を回るのに、何年かかるかは、分からない。


間に合う日と、間に合わない日が、これから、いくつも来る。ミレアが九日走って、一日、間に合わなかったように。


それでも、記録は遺る。


命より長く。


間に合わなかった子の名前も、遺す場所さえあれば、いつか、誰かが読む。


「――写す」と、ニラが言った。


短く。それだけ。


だが、ペンを持つ手が、いつもより深く紙を押していた。


五十二人分の名前を持つ手帳に、今度は、二十年分の街の罪が加わる。


重いとは言わなかった。


もう、その重さの持ち方を、この女は知っている。

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