第109話「載らない一人」
◇
「――壊れた!」
計量頭が叫んだ。
その一言で、決まるはずだった。
盤が壊れた。三台とも。今日の市は、流れる。子供たちは、判じられずに帰る。エラたちを助けたときと、同じだ。誰も攫わず、誰も戦わず、ただ記録が成立しない。
俺は、後ずさりを、始めた。ゆっくり。人混みの中へ。溶けるように。
そのときだった。
「――壊れて、おりません」
声は、大きくなかった。
だが、広場のざわめきを貫いた。
人混みが、割れた。
割れた先に、灰色の外套の男が、立っていた。
◇
第七検定士。
メルクで、俺と目を合わせて、目を逸らした男。東門の先触れは、こいつだった。追ってきたのだ。半里の塩田を越えて、この街まで。
男は、卓に歩み寄った。組合長も、計量頭も、この男を知らない顔をしていた。当然だ。カルナは、教会の巡回を二十年、受けていない。灰色の外套の意味を、この街の誰も、知らない。
検定士は、九枚の水晶を見た。振り切れた目盛りを、見た。
それから顔を上げて、広場を見渡した。
メルクの、あの日と、同じ動きだった。
俺は人混みの中で、動きを止めた。動けば見つかる。だが、動かなくても、この男は――
検定士の視線が、俺の上で止まった。
一拍。
男は、目を、逸らさなかった。
◇
逸らさずに、こう言った。
「――盤は、正常です。ここに、測定不能の器が、一つ紛れております」
広場が、静まった。
組合長が、聞き返した。何と言った、という顔で。
検定士は、繰り返さなかった。代わりに、卓の水晶を布で包み始めた。丁寧に。一枚ずつ。二十二年、同じ手つきで、同じことをしてきた男の手で。
「本日の検定は、中止いたします」
「――なぜだ」と、組合長が言った。「壊れておらんのだろう。なら、続けろ。今日のために、皆、並んでおる」
「盤が、正しく測れる状態に、ありません」
「今、正常だと――」
「盤は、正常です。場が正常でない」検定士は、水晶を箱に納めた。「測定不能の器が近くにある限り、他の器は、正しく測れません。全部の目盛りが、その器に、引かれます。……本日測れば、この列の子は、全員、実際より高く出ます」
組合長の顔が、変わった。
高く出る。
その言葉の意味を、この男は正しく理解した。
高く出れば、商家が、引き取る。塩田に行くはずだった子が、養子になる。労働力が減る。
「……全員、高く?」
「はい」
「それは、困る」
◇
俺は、その一言を聞いた。
それは、困る。
二十年、この街が盤で人を篩ってきた理由が、その一言に全部あった。低く出る子が、要るのだ。塩田を回すために。全員が高く出ては、困るのだ。
教会は、器を集めるために篩う。
この街は、器を地面に留めるために篩う。
低く出た子を、塩田に沈めておくために。
検定士は、それを知っていて言った。
この男は、俺を売らなかった。
「測定不能の器が紛れている」と言えば、普通は、それを捕えろ、という話になる。だが、この男は、そう言わずに、「今日は測れない」とだけ言った。組合長が一番聞きたくない言葉――全員が高く出る――を、選んで置いた。
検定を、止めるために。
◇
組合長が、手を振った。
「――今日は、しまえ。市は、塩だけだ。子供は、次の市に回す」
計量頭が、盤を抱えた。
子供の列がほどけて、散った。判じられなかった子供たちは、なぜ帰されるのか分からない顔で、それでも少しほっとした顔で、広場を離れていった。
手が鉤になった、八つの子も。
その子は、列を離れる前に一度、振り返った。誰かを探す顔ではなかった。ただ、今日という日が何だったのかを、確かめる顔だった。
確かめきれないまま、その子は、塩田の方へ、歩いていった。
◇
検定士が、箱を抱えて、俺の方へ歩いてきた。
人混みは、もう、散り始めていた。この男と俺の間に、誰もいなくなった。
男は、俺の、一歩手前で止まった。
「――お久しぶりです」
「……なぜ、止めた」
「止めておりません。測れないものは、測れない。事実を述べただけです」
「あんたは、俺が、ここにいると言った。捕えろと言えば済んだ」
「わたしは、測る者です」男は、静かに言った。「捕える者では、ありません。……それに、あなたを捕えても、測れません。盤の外にいる器を、どうやって記録に書けと。……あなたは、わたしの帳面に、載らない。載らないものを、わたしは、追えても捕えられません」
「じゃあ、なぜ、追う」
検定士は、少し黙った。
それから、言った。
「載らないものが、いる。……二十二年で初めてです。わたしは、それを放っておけません」
男は、俺の脇を、通り過ぎようとした。
通り過ぎる、その一瞬。
すれ違いざまに、低く言った。
「――次の街は、盤をしまっておくとよい。あなたが鳴らす前に」
「……」
「わたしは、あなたが鳴らした盤を、追ってきました。メルクから、ここまで。……鳴らせば、追える。鳴らさなければ、追えません」
男は、足を止めなかった。
「わたしは、あなたにそれを教えました。……なぜ教えたのかは、わたしにも分かりません」
◇
旅籠に戻ると、鍋の湯が沸いていた。
ガロが、椀に注いだ。塩を、一つまみ。メイセンの、鉄鍋のいつもの味だ。
俺は、それを飲んだ。
半里の塩田を、往復した。喉が、塩を欲しがっていた。
「――どうだった」と、ガロが聞いた。
「止まった。今日の検査は、流れた」
「じゃあ、勝ったのか」
俺は、椀を両手で包んでいた。湯が、掌を温めていた。
「……分からない」
あの男は、俺が鳴らした盤を追ってきて、そして、鳴らすなと言った。追う理由を、自分で消しに来た。矛盾している――と思って、違うと思い直した。
あの男は、追いたい。だが、捕えたくはない。捕えれば、追う理由が消える。二十二年、一人も覚えなかった男が、初めて、忘れたくないものを見つけた。だから、鳴らすなと言った。俺が鳴らさなければ、あの男は俺を追えず、俺はあの男の帳面に載らない。
――それでも、あの男は、俺を覚えている。名前も、所在も、器の大きさも書けないまま。
名前を捨てた男が、載せられない一人を、頭の中にだけ、置いている。
ニラが、俺にしていることと、同じだった。
俺は、椀の底の最後の一口を飲んだ。塩の味が、舌の奥に残った。
味は、記憶より、深く届く。リタが塩汁で笑ったという、あの話を、俺はニラの口から聞いた。聞いただけだ。俺自身が見たかどうかは、もう分からない。
それでも、今、俺の舌に塩がある。
これは、誰の口からでもない、俺の味だった。
だが、その味は、長くは続かなかった。
椀を置いたとき、ヴァンネスが、宿の戸を開けた。老兵は、街の宿から、半里を歩いてきていた。手に、写しの束を抱えている。組合の帳面を、三日洗った顔だった。
「――坊主。一つ、見つけた。厄介なやつを」
その後ろから、ミレアが入ってきた。
街に残していたはずの女が、今日は、旅籠まで来ていた。市が流れたと聞いて、来たのだ。
そして、その手を、引かれるように、もう一人。
手の指が鉤に曲がった八つの子が、ミレアの後ろに立っていた。




