第108話「市の日」
市の日の朝は、鐘で始まった。塩田の向こうで三つ。荷を担いだ蟻の列が、いつもより早く、いつもより多く、白い畦道を街へ流れていく。今日は塩を売る日で、子供を売る日で、この街ではその二つが同じ市の中で行われる。
俺は、旅籠を出た。
ガロが、戸口まで、ついてきた。この男は止めなかった。止めても無駄だと知っているし、止めるべきでないとも思っている。ただ、俺の背中に、一つだけ言った。
「鍋の湯は、沸かしとく。……戻ったら飲め」
それが、この男の見送りだった。
リタは、まだ眠っていた。眠らせておいた。あの子を起こして「行ってくる」と言えば、あの子は「いきたいの?」と、また聞く。昨夜、答えられなかった問いに、今朝も答えられる気がしなかった。
◇
白い平地を、半里歩いた。
塩田の光が、目を灼いた。真上から来る日と、下の塩から跳ね返る日と、両方に灼かれる。目を細めても、涙が滲む。二年、洞窟と灰色の街と白い聖堂を歩いてきた目に、この明るさは暴力に近かった。
畦道は幅三尺、片側は浅い塩水だ。ニラが二度落ちた道を、俺は落ちずに渡った。狩人の足は、細い道の上でこそ、ちゃんと働く。獣道も、崖の縁もこういう幅だ。じいさんは、広い道より狭い道の方が安全だと言った。狭い道は、足が集中するからだ、と。広い道で死ぬ猟師は多い、とも。
渡りながら、両脇の塩田を見た。
膝ほどの深さの水を張った四角い枡が、地平まで続いている。その枡の一つずつに、人が入っていた。腰を折り、板で、底に溜まった塩を掻き寄せている。朝から、夕まで。掻いた塩を、桶に移し、桶を担いで、畦を運ぶ。
その中に、子供が混じっていた。何人も。
今日は市の日だ。測られる子は、塩田を休む。だが、休めない子もいる。もう測られ終わって塩田に配られた子は、市の日も掻いている。
街の入り口に、門番はいなかった。市の日は、誰でも入れる。人が多いほど、市は儲かるからだ。
一歩、街に入った。
何も、起きなかった。当たり前だ。盤はまだ布の中にある。据えられて布を取られるまでには、間がある。その間に、位置につく。
――座って見る。走り出したら、もう読めない。
じいさんの声のとおり、俺は走らなかった。
◇
広場は、街の東寄りにあった。ニラの言った通りだ。石畳が新しい。五年以内に敷き直してある。桟橋の匂い――塩と、濡れた木と、魚ではない何か――が、風に乗ってきた。
南側に、卓が三つ扇形に。
その前に、子供の列。
順番も、ニラの言った通りだった。前の方は、いい服を着ている。商家の子だ。真ん中は、職人の子。そして、列の一番後ろ。
服の色が、違った。
塩で、白く、灼けていた。
身寄りのない子供たちが、朝から並んで、日が高くなるのを待っている。水も、飲んでいない。飲めば盤の前で腹を下すかもしれず、少しでも高く出るように、大人が飲ませないのだ。よかれと思って。
高く出れば、商家に引き取られる。塩田に行かずに済む。だから飲ませない。この街で、子供に水を飲ませないことは、優しさなのだ。
ニラは、それを半里先から見抜いていた。最後に並ぶ子が一番疲れて、一番低く出る。順番そのものが篩なのだと。俺は今、その順番を目で追っている。彼女の言葉が、目の前で絵になっていく。
俺は、その列を、見た。
見て、一人、見つけた。
手が鉤になった、八つの子。
桶を、運んでいない。今日は、運ばなくていい日だ。今日は、測られる日だから。その子は列の一番後ろで、鉤の手を体の脇に隠すように持っていた。
◇
卓の前に、男が二人立った。
一人は、恰幅のいい絹の上着。組合長だろう。もう一人は、痩せて、指の長い男。計量頭だ。二人が、それぞれ、腰から鍵を出した。
だが、盤はもう卓の上に出ていた。三つの箱が、布を被って並んでいる。鍵は儀式だった。二人揃わないと開かない金庫から今朝恭しく運び出してきた――その手順を街に見せるための、鍵だった。
計量頭が、一つ目の布に、手をかけた。
俺は、動いた。走らなかった。歩いた。
見物人の間を、ゆっくり卓の方へ。市の日の広場は人でごった返している。塩を値切る声、子を励ます親の声、揚げ物の匂い、鶏の羽の匂い。その中を一人余分に歩いていても、誰も気に留めない。
狩人の潜みは、隠れることじゃない、とじいさんは言った。隠れれば、隠れているという気配が出る。潜むというのは、その場に、もとから在るように、在ることだ。俺は、塩を買いに来た男の顔で歩いた。腰の袋には塩を一掴み入れてある。誰かに呼び止められたら、これを買った、と言うために。
呼び止められは、しなかった。
卓まで、二十歩。
布が、取られた。一台目の水晶が、朝日を受けて、白く光った。
十五歩。二台目。
十歩。三台目。
三枚の水晶が扇形に、三台、広場の南に立った。
九枚の板が、朝の光をそれぞれの角度で跳ね返している。まだ、震えていない。俺が近づけば、震える。近づきすぎれば、鳴りすぎる。二日、旅籠で、この距離を計算した。ニラが持ち帰った、メルクでの目盛りの振れ幅。あの日、俺は卓から三十二歩にいて、盤は、かすかに震えた。ここでは、九枚を、はっきり振り切らせて、なお「壊れた」と思わせる程度に留めたい。強すぎれば、器の仕業だと勘づかれる。弱すぎれば、ただの不良品として、替えの盤を出される。
計算した答えが、五歩だった。
見ていないものを、俺は、賭けていた。ニラの目盛りを、信じていた。
五歩。
◇
卓の上の、九枚の水晶が。
一斉に。
震えた。
誰も、触れていなかった。
計量頭の、長い指が止まった。目盛りを見た。それから、もう一度見た。信じられない、という顔で。
九枚とも、振り切れていた。
色は、出ていなかった。
組合長が、何か言った。計量頭が、水晶を指で弾いた。震えが、大きくなった。弾くほどに、大きくなった。
見物人が、ざわついた。子供の列が崩れかけた。
俺は、そこで止まった。
卓の、五歩手前。
これ以上、近づく必要はなかった。
賭けは、当たっていた。
◇
計量頭が、目盛りに指を当てたまま動かなくなった。
三台とも、色が出ていない。二十年、この街で色の出なかった盤は一枚もなかった。
組合長が、口を、開きかけた。
その口が、閉じる前に。
広場の、人混みの向こうから。
声がした。




