第107話「見てない人が」
三日目の、夜明け前。
ミレアが、塩田を渡ってきた。
灯を持っていなかった。半里を、月だけで歩いてきたのだ。畦道は幅が三尺しかなく、片側は浅い塩水で、落ちれば目を焼く。それを、この女は灯なしで渡ってきた。
小屋の戸を開けたとき、彼女の裾は濡れていた。一度は落ちている。
「――リゲル」
俺は、起きていた。二日、まともに寝ていない。狩人の癖だ。獣が動く前は、体が先に起きる。
「あたし、あの子を、連れて帰る」
◇
座れ、と言った。彼女は座らなかった。
ガロが起き出してきて、油灯に火を入れた。塩を吸った壁が、白く光った。リタは、奥で眠っていた。眠らせておきたかった。
「今日は市の日だ。盤が広場に出る」と、俺は言った。「ミレア。あんたが今、塩田に入って子供を担いだら、三日で追手が出る。この街は、教会じゃない。教会は、盗まれたことを認めたがらないから、沈黙する。だが商人組合は、認める。認めて、金で人を雇う。……ここは、そういう街だ」
「知ってる」
「知ってて、やるのか」
「やる」
彼女は、まっすぐ、俺を見ていた。
「あの子の指ね、こうなってるの」
ミレアは、自分の左手を、こちらに向けた。四本の指を、鉤のように、途中で曲げた。
「伸びないの。塩が、傷の中で固まって、腱を引いてる。……あと二年で、桶が持てなくなる。持てなくなったら、飯が出ない。飯が出なくなった子が、この街でどうなるかは、あんたも分かるでしょう」
「分かる」
「じゃあ、なんで止めるの」
「止めてない。段取りを聞いてる」
「段取り」
彼女はその言葉を、口の中で二回、転がした。
それから、静かに、言った。
「――あんた、あの子を、見てないでしょう」
◇
油灯が、揺れた。
ガロが、鍋から手を離した。
「見てないよね。半里、離れたここにいて。ニラから聞いただけだよね。……八つで、指がこうなってて、薬を断った子。それ、あんた、話で聞いただけだよね」
「――ああ」
「見てない人が、なんで、決めるの」
◇
俺は、答えられなかった。
答えられなかったのは、この女が正しいからではない。正しくないからだ。だが、正しくないことを言われて反論できないとき、人間はたいてい、いちばん痛いところを突かれている。
二年、俺は、隊の先頭にいた。
ドッズのとき、俺は、そこにいた。父が息子に殺されるところを、俺はこの目で見た。ヘズラのときも、メイセンのときも、俺は現場にいた。いて、間に合わなかった。間に合わなかったが、いた。
いたから、決められた。
見たものについてだけ、俺は、決めてきた。
だが今、俺の頭の中にある「八つの子の、鉤になった指」は、俺の目が作ったものじゃない。ニラの口が作ったものだ。ニラが選んだ言葉、ニラが拾った細部、ニラが重要だと判じたことだけが、俺の中にある。
それは、俺の記憶と、同じ作られ方をしている。
母の顔も、セラの声も、丘の上で泣いた十六の俺も、全部、この女の口から出てきた。俺は、それを、一度も疑ったことがない。
疑いようがないからだ。
――そして俺は、それをもとに、二年、決めてきた。
ミレアが言っているのは、今日のことだけじゃない。
この女はたぶん、それを知らずに、俺の器の底を蹴った。
◇
「――ミレア」
ガロだった。
大盾使いは、壁に凭れて、腕を組んでいた。声は、低かった。
「俺は、見てた」
「え」
「四年前だ。俺の娘が、寝てた。咳が止まらなくて、痩せて、俺の顔も分からなくなってた。……俺は、毎晩、見てた。目の前で、だ。半里も離れてねえ。手が届く場所で、毎晩、見てた」
部屋が、静まった。
「見てたから、決めたんだよ。隊を売るって。……ミレア、聞け。見てる奴が正しく決めるってのは、嘘だ。見てる奴は、目の前のものしか、決められねえ。俺は、寝台の上の娘しか見えてなかった。だから、四人、死んだ」
ミレアが、動かなかった。
「あんたの言うことは、俺には、身に覚えがありすぎる。……見てない奴が決めるのは、確かに、気に入らねえ。だが、見てる奴が決めると、隊が死ぬんだ。俺が、そうだった」
男は、そこで、俺を見た。
「――坊主。ただし、これは、あいつの負けって話じゃねえぞ」
「……」
「見てる奴も、見てねえ奴も、両方、間違える。だから、隊なんだ。……お前が二年やってきたのは、そういうことじゃなかったのか」
◇
俺は、外に出た。
白い平地が、東から、少しずつ、灰色に変わっていく。夜明けだ。塩田の向こうで、鐘が一つ鳴った。市の支度が始まる。
半里先の、青い屋根。
その一階の、奥の部屋に、鉄格子が二つ。鍵が二つ。二人揃わないと開かない。
だが、今日は、開く。
三台の盤が、広場の南側に、扇形に並ぶ。
――そこだ。
じいさんの声が、頭の中で鳴った。
――獣に見つかるのは、逃げる者じゃ。じっとしとる獣は、目の前におっても、見えん。木と同じじゃからな。
盤が金庫の中にある日、俺が街に入れば、鳴るのは一台。鳴らしたのは、街に一人しかいない。すぐに割れる。
盤が広場に出ている日、俺が街に入れば――鳴るのは、三台。
その周りには、朝から並んだ子供が、何十人といる。親戚がその倍いる。見物人がその倍いる。
三台とも振り切れて、色が出ない。
計量頭はどう思う。
器の化け物が紛れ込んだ、とは思わない。
――盤が、壊れたと思う。
これは賭けだが、二十年この街は、教会の巡回を一度も見ていない。灰色の外套の男が、目盛りだけを読む顔を、この街の誰も知らない。ここにいるのは、塩で儲けた商人だ。あの人たちが盤を三台持っているのは、人を測るためじゃない。**測れるものを、持っているためだ。**
壊れたと思ったら、しまう。
しまえば、その日の市は、終わる。
◇
戻ると、ミレアがまだ立っていた。
「――今日、俺が、街に入る」
ガロの背中が、動いた。
「坊主」
「三台とも、俺が鳴らす。振り切らせる。色が出ないやつを、三台同時にだ。……あいつらは、盤が壊れたと思う。思ったら、その日の検査は流れる。今日並んでる子は、全員、判じられずに帰る」
「――一日だけよ」ミレアが言った。「次の市が来たら、同じことになる」
「一日だ」
「一日で、何が変わるの」
「変わらない」と、俺は言った。「だが、あんたが塩田で子供を担ぐのを、一日、遅らせられる。……その一日で、ヴァンネスに、この街の組合の帳面を洗わせる。トゥーレのときと同じだ。ここは記録で回ってる街だ。塩の目方も、人の目方も、全部、帳面に載ってる」
「……」
「見てないから決めない、じゃない。見てないなりに、決める。……それが間違ってたら、あんたが、その場で、俺を殴れ」
ミレアは、長いこと、俺を見ていた。
それから、初めて、椅子に座った。
「――殴るわよ」
「知ってる」
◇
東の空が、白んだ。
塩の平地が、一斉に、光り始めた。何万年か前の湖の底が、朝日を全部、跳ね返す。目を開けていられない明るさだった。
その光の中を、俺は、歩き出した。
二日ぶりに、隊長が、前に出た。
前に出てその一歩目で、はっきり分かったことが、一つある。
俺は今から、自分が見ていないものについて、賭ける。




