第106話「他人の目」
旅籠は、塩田の外れにあった。
宿というより、荷物置き場に寝床を足したような小屋だ。壁の板は塩を吸って白く粉を吹き、触ると指が滑る。客は俺たちのほかに二組いて、どちらも塩を運ぶ荷駄の連中だった。街に入る銭を惜しむ者と、街に入れない者が、同じ屋根の下で寝る。そういう場所だった。
一日目の夜、ニラは、日が落ちてから半刻で戻ってきた。畦道を半里、この女は走ってきていない。走れば足が滑って塩田に落ち、落ちれば目を焼くからだ。だから歩いてきて、それでも息が上がっていた。急ぎたいのに急げない道を、歩幅だけ広げて渡ってきた人間の、息の上がり方だった。
「――全部、話す。長くなるけど、いい?」
「頼む」
彼女は水を一口飲んで、手帳を開かなかった。開かないときの方が、この女は正確だ。書いたものを読むと、書いたときの理解に引きずられる――いつか、そう言っていた。頭の中に置いたものは、まだ形が固まっていないから、話しながら組み直せる。二年前、ヴェルデの窓口でそう説明されたとき、俺は半分も分かっていなかった。
◇
「広場は、街の中心じゃなくて、東寄り。塩市の桟橋に近い方。石畳が新しい。五年以内に敷き直してる。……盤は、広場じゃなくて、商人組合の建物の中。三階建ての、青い屋根の。一階が計量所で、そこの奥の部屋。窓が二つあって、両方に鉄格子。鍵は二つで、片方は組合長、片方は計量頭が持ってる。二人揃わないと開かない。……つまり、あれは、この街で一番高いものなの。金庫と同じ扱い」
俺は聞いていた。聞きながら、この女が街を歩く速さを想像していた。石畳の新しさに気づくには、下を見て歩く必要がある。鉄格子が二つあることに気づくには、計量所の奥まで入る用がいる。ニラは、たった一日で、それを両方やっている。
「市の日は三日後で、朝の鐘で盤が出る。三台、広場の南側に扇形に並べる。……順番があるの。まず、商家の子。次に、職人の子。最後に、身寄りのない子。この順番は、二十年変わってない。誰も決めてないけど、誰も破らない」
「――なぜ、その順番だと分かる」
「宿の女将が、そう言ったから。……三回、言い直させた。世間話のふりをして。三回とも同じ順番を言ったから、これは本当」
ニラは、そこで一度、息を吸った。
「それでね、リゲル。……順番の意味、分かる?」
「……」
「最後まで待たされる子が、一番、疲れてるってこと。朝から並んで、日が高くなって、水も飲めなくて。……盤って、体の調子で、少し振れが変わるの。ヴェルデの窓口で、二年、見てたから知ってる。二日酔いの冒険者は、素面のときより、低く出る」
俺の背中が、冷えた。
二十年、この街は、それを知らずにやってきた。あるいは、知っていて、知らないことにしてきた。どちらでも、結果は同じだ。朝から並ばされた子が低く出て、低く出た子が塩田に行く。そして塩田に行った子の子供が、また、最後に並ぶ。
「身寄りのない子が低く出るのは、器が小さいからじゃない。最後だからよ」
◇
俺は、動けなかった。
半里先で、この女がそれを見た。俺は、見ていない。
それでも、今、俺の頭の中には、その広場がある。石畳の色まで、ある。扇形に並んだ三台の盤も、朝から並ばされて、水も飲めない子供の列も、ある。
見ていないものが、ある。
二年、この女は、俺の頭の中に、俺が失くしたものを置いてきた。母の顔。セラの声。丘の上で泣いた十六の俺。全部、ニラの言葉でできている。俺の中身の半分は、この女の口から出たものだ。
それを、俺は疑ったことがない。
一度も。
なぜなら、確かめようがないからだ。確かめる手段が俺の中に無いから、俺は、この女を信じるしかなかった。
――今日も、同じだ。
俺は、カルナの広場を、確かめられない。
だから、信じる。
二年やってきたことと、寸分、違わない。
違うのは、一つだけだ。
これまで俺が受け取っていたのは、俺の過去だった。今日受け取ったのは、三日後、俺が誰かを助けるか見捨てるかを決めるための、現在だ。
俺は、この女の目で決める。
◇
「――ニラ」
「うん」
「もし、あんたが、間違えたら」
彼女の手が止まった。
塩を吹いた壁が、油灯の光を、鈍く返していた。
「……間違えないよ」
「そうじゃない。もし、の話だ」
「……」
「あんたが、女将の言葉を一つ聞き違えたとする。順番が逆だったとする。それで俺が判断を誤って、誰かが死んだとする。……そのとき、あんたは、どうする」
ニラは、長いこと、答えなかった。
それから、手帳を、卓に置いた。
「――書く」
「え」
「書くよ。全部。私が何を聞いて、何を書いて、どこで間違えたか。……そして、それを、あなたに読ませる。あなたが私を許さなくても、書く。許してくれても、書く。……ヴェイユさんは、書かないことを選んだ。私は、たぶん逆の人間なの」
彼女は、そこで、少し笑った。ひどく疲れた笑い方だった。
「怖いのは、間違えることじゃない。……間違えたことに、誰も気づかないことなの。あなたは、確かめられない。だから、私が嘘をついても、あなたには分からない。二年、ずっとそうだった。……それが、どれだけ怖かったか、あなた、知らないでしょう」
俺は、答えられなかった。
「私が、まっすぐ書いてるって、誰も証明できない」
◇
二日目の夜。
ニラは、遅かった。鐘が三つ鳴っても戻らず、四つ目でようやく、畦道に灯が見えた。
戻ってきた彼女は、袖が濡れていた。塩田の水だ。落ちたのだ。
「――大丈夫か」
「うん。目は洗った」
それだけ言って、彼女は、いつもの椅子に座った。座って、水を飲んで、それからいつもより低い声で言った。
「ミレアさんが、塩田に行った」
「……なぜ」
「見つけたの。子供を」
◇
「八つくらいの、男の子。塩田の三番池で、桶を運んでた。……あの子、手が駄目になってる。塩は、傷に入ると、治らないの。傷が塩を吸って、また裂けて、また吸って。……あの子の指、もう、真っ直ぐ伸びない」
ガロが、鍋から手を離した。この男が鍋から手を離すのは、考えるのをやめて、体が先に動きたがっているときだ。
「ミレアさんが、薬を塗ろうとした。……止められた」
「誰に」
「――その子に」
油灯が、揺れた。
「塗ったら、桶が持てなくなるって。手が滑るから。……一日、桶を運べないと、その日の飯が出ないんだって。だから、いらない、って。……八つの子が、そう言ったの。治療術士に向かって、丁寧に断ったの」
ニラの声が、平らになっていた。
感情が消えたのではない。平らにしなければ、続けられないのだ。俺はその声を、メルクの離れで、一度、聞いている。
「ミレアさん、その場で、動かなくなった。半刻、動かなかった。……私、手を引いて連れて帰った」
「――ミレアは、今どこだ」
「宿。街の宿。……眠ってない」
彼女はそこで初めて、俺をまっすぐ見た。
「リゲル。あの人、明日何かする」
「……」
「止めるなら、あなたが、街に入るしかない。……でも、入れない」
◇
その夜、俺は外に出た。塩の平地は月の下で青く光り、地平まで何もなかった。風が塩を運んで頬に当たり、舐めると辛かった。この地面は、何万年か前の湖の底だ。水が引いて、塩だけが残った。残ったものが、こんなに広い。
半里先に、青い屋根がある。その下に、俺の隊がいる。
二年、俺は、隊の先頭にいた。獣が出れば、俺が最初に見た。誰かが死にそうなら、俺が最初に走った。ドッズのときも、ヘズラのときも、メイセンのときも、俺はそこにいた。いて、そして、間に合わなかった。
だが、いた。
今、俺は、いない。
ミレアが、明日、何をするか。俺は見ない。
リタが、小屋から出てきて、俺の隣に立った。眠っていなかったらしい。
「おにいちゃん」
「ああ」
「しろい」
「ああ」
少女は、しばらく、塩の平地を見ていた。
それから、言った。
「……ここ、なんにも、ならないね」
俺は、その言葉を、しばらく噛んでいた。
この子は、たぶん、地面のことを言っている。何も育たない地面のことを。
それだけのことだ。
それだけのことのはずだった。




