第105話「塩の街」
メルクを出て、十日。
土の色が、また変わった。赤い粘土は東へ行くにつれて白く痩せ、やがて草も生えなくなった。地面に薄く霜が降りているように見えるのは霜ではない。指で掬って舐めると、舌が痺れるほど辛かった。塩だ。この辺りの地面は、水が引いたあとの湖の底なのだと、ヴァンネスが言った。何万年か前に干上がって、塩だけが残った。だから何も育たないが、掘れば銭になる。人間は、育つ土地よりも、掘れる土地に集まる。
カルナは、その白い平地の真ん中にあった。
街を囲む壁はなく、代わりに、四角く区切られた浅い池が、地平まで続いていた。塩田だ。日が当たると白く焼け、目を開けていられない。池のあいだの畦道を、荷を担いだ人影が、蟻の列のように動いていた。
街そのものは、豊かだった。遠目にも分かる。屋根が青い。瓦ではなく、焼いた陶板を敷いている。あれは高い。メルクの赤瓦が十軒買える値段で、あの青が一軒ぶん葺けるかどうかだと、ヴァンネスが言った。
「――で。どうする」と、ガロが聞いた。
街道の脇に荷馬車を寄せて、俺たちはその青い屋根を眺めていた。コッツが先に入って、二刻で戻ってくることになっている。それまでは、ただ待つ。待つのは慣れている。じいさんに五年、そればかり教わった。ただ、あの頃に待っていたのは獣で、獣は必ず、いつか通る。街は通らない。街はそこにあって、動かず、こちらが行くのを待っている。
◇
コッツは、一刻半で戻ってきた。早すぎる、と俺は思った。この小僧が早く戻るときは二つに一つで、何も無いか、多すぎるかのどちらかだ。荷台に飛び乗るときの足の置き方を見て、俺は後者だと判じた。
「兄貴。……悪い報せと、もっと悪い報せがある。順番、どっちがいい」
「悪い方からでいい。順番は、後で入れ替わる」
「盤がある。広場に三台。市の日に出すんだと。……次の市は、三日後だ」
荷馬車の陰で、ニラの手が止まった。
「三日後か。……教会の巡回が、この時期に、この街に入る話は、ヴァンネスから聞いてない」
「――そこが、もっと悪い報せだ」
コッツは、水を一口飲んで、それから、いつもより丁寧に喋った。この小僧が丁寧に喋るときは、自分でも呑み込めていないことを喋るときだ。
「教会じゃねえんだよ。街のもんだ。カルナの商人組合が、盤を三台、自前で持ってる。二十年前に、教会から買ったんだと。……で、市の日に出して、何に使ってると思う。子供の検査じゃねえ。人の値付けだ」
「値付け?」
「格付けだよ。この街じゃ、盤の目盛りが、そのまま身分になる。……高く出た子は、商家が引き取る。養子だ。字を習って、算盤を習って、いずれ番頭になる。低く出た子は」
小僧は、顎で、白い平地をしゃくった。
「あそこだ」
塩田の畦道を、蟻の列が動いていた。
◇
誰も、しばらく、何も言わなかった。
風が白い地面を撫でて、塩の粒を運んできた。それが荷馬車の幌に当たって、砂よりも細かい、乾いた音を立てた。塩田の向こうで、蟻の列が、同じ速さで動き続けていた。最初に口を開いたのは、ヴァンネスだった。
「――坊主。わしは、四十年、大陸を歩いた。教会の巡回も、二十回は見た。じゃが、これは、初めてじゃ」老兵は、青い屋根から目を離さなかった。「よう聞け。教会の巡回はな、悪いには悪いが、あれは【外から来る】んじゃ。年に一度、白い馬車が来て、三人連れて帰る。街の連中は、その日だけ悪いことを手伝う。あとの三百六十日は、ただの瓦屋じゃ。……ここは、違う」
「……」
「盤が、街のもんじゃ。市の日に、街の人間が、街の子供を自分の手で篩っとる。二十年。教会は、一度も来とらん。誰にも命令されとらん。……坊主、これはな、教会の罪じゃない」
俺は、答えられなかった。
「人間の罪じゃ」
◇
ミレアが、荷台から降りた。
降りて、白い地面を、少し歩いた。
それから、しゃがんで、塩を指で掬った。
「……あたし、二年、教会を憎んできたの」彼女は、こちらを見ずに言った。「星の間を見て、リタを見て、これは教会がやったことだって思ってた。教会を潰せば、こういうことは終わるんだって。……それが、あたしの根っこだった」
塩が、指の隙間から、白く落ちた。落ちて、白い地面に混ざって、どれが彼女の掬った塩か、分からなくなった。
「教会がいなくても、人間はこれをやるのね。……あたしが二年、走ってきた方向は、合ってたの? 教会を潰したら、この街は、盤を捨てるの? 捨てないでしょう。買ったんだもの。二十年、便利に使ってきたんだもの」
誰も、答えなかった。リタが、荷台の縁から、姉の背中を見ていた。
◇
俺は、街に入れない。それだけは、はっきりしていた。
広場に三台。市の日に出す。だが、市でない日にどこへしまってあるのかは分からないし、しまってあっても鳴るということを、俺はメルクで確かめている。三十歩だ。俺が街に入った瞬間、どこかの棚の中で、三枚の水晶が振り切れる。それに誰かが気づくかどうかは賭けで、俺は賭けない。じいさんは、賭ける狩人は五年で死ぬと言った。
「――宿場に残る」と、俺は言った。
街道から半里、塩田の外れに、旅籠が一軒あるとコッツが言っていた。街に入りきれない荷を待たせる、粗末な小屋だ。
「ガロ。あんたも残ってくれ。リタも連れていけない」
「連れていけねえのか」
「あの子は、名簿に載ってる。教会の名簿に。適合と判じられて、リディアへ運ばれて、そこで消えたことになってる子だ。……盤を三台持ってる商人組合が、教会と一度も文を交わしてないと、言い切れるか。二十年、一度もだ」
ガロは、少し考えて、頷いた。
「街に入るのは、四人。ヴァンネス、ミレア、コッツ、ニラ」
俺は、そこで、一度、言葉を止めた。
言い慣れないことを言うときの、あの止まり方だった。
「……俺は、行かない」
◇
荷馬車の車輪が、軋んだ。誰も動いていないのに、軋んだ。
二年、俺は、隊の先頭にいた。
五層の壁で、俺は言った。今日の狩りは九割が待ちだ、と。あのときも、俺は待った。だが、あれは【俺が待つ場所を選んだ】待ちだった。俺は、いつでも動けた。動かなかっただけだ。
今日は、違う。
動けない。
隊が、街に入る。俺は、外にいる。
何が起きているかを、俺は見ない。
決めるのは、俺だ。だが、見るのは俺じゃない。
――そんな隊長を、隊はどう思う。
◇
ヴァンネスが、俺の顔を見た。
この老兵は、こういうときに必ず何か言う。冗談か、皮肉か、身も蓋もない事実か。
だが、この日は、何も言わなかった。
代わりに、ニラが、手帳を開いた。
「――リゲル。一つ、提案していい?」
「言え」
「私が、あなたの目になる」
彼女は、いつもの、事務的な口調だった。ヴェルデの窓口で、三人同時に喋りかけられても取りこぼさなかった女の、あの口調で、途方もないことを言った。
「毎晩、ここに戻ってくる。街で見たものを、全部、話す。人数も、顔も、盤の置き場所も、誰が何と言ったかも、全部。……私は、そういうのが得意なの。四十二人を、一目で数えた女だから」
「……」
「あなたは、街を見られない。でも、私の目で、見られる」
俺は、この女を、しばらく見ていた。
二年、この女は、毎晩、俺の部屋に来た。俺が忘れたものを、話して、聞かせて、埋め直した。あれは、過去を渡す仕事だった。
今度は、逆だ。
今、俺の目の前に無いものを、この女が、渡してくる。
記録者が、過去ではなく、現在を運ぶ。
「――頼む」と、俺は言った。
ニラは、頷いた。頷いて、それから、少しだけ笑った。
なぜ笑ったのかは、聞かなかった。
◇
四人が、白い畦道を、歩いていった。
塩田の光に、四つの背中が溶けていく。ヴァンネスの猫背。ミレアの、少し早い足。コッツの、跳ねるような歩き方。そして、荷を担ぎ直すふりをして、一度も振り返らない、ニラの背中。
俺は、その背中を、丘の上から見ていた。
手が、届かない。
三十歩どころではない。半里だ。
隣で、ガロが、鍋を指で撫でていた。
リタが、俺の袖を引いた。
「おにいちゃん」
「ああ」
「いかないの?」
「行けない」
少女は、少し考えて、それから、聞いた。
「……いきたいの?」
俺は、答えられなかった。
白い平地の向こうで、青い屋根が、光っていた。




