第104話「幕間・五十二人目」
メルクを出て、四日。
荷馬車の上は、字を書くのに、向いていない。轍を拾うたびに、ペン先が、跳ねる。だから私は、書くのを朝と夜に決めた。馬車が止まっているあいだだけ。四半刻ずつ。
ヴァンネスさんは、そのたびに、火の番を代わってくれる。ガロさんは、私が書いていると、鍋の音を立てない。あの人たちは、口では何も言わない。ただ、静かにしてくれる。
コッツくんだけが、たまに、覗こうとする。覗こうとして、必ず失敗する。あの子の手は街で一番速いのに、私の手帳には一度も届いていない。届かせていない、と言った方が正しい。
◇
エラの言葉が、離れない。
四日、離れない。
――わすれても、いい。
――かいてあるもん。
あの子は十歳で、字が読めない。
読めないのに、それを言った。
◇
私は二年、逆のことをしていた。
一冊目の手帳は、リゲルに忘れさせないために書いた。毎晩、部屋に行って、話して、書いて、また話す。埋め直し、と彼は呼んだ。私は、その言い方が好きだった。
埋めれば、戻ると思っていたから。
戻らなかった。
二年。一つも、戻っていない。
彼は、母親の顔を思い出さない。セラさんのことも、思い出さない。私が話すと、頷く。全部知っている、という顔で頷く。知っているのは、私が話したからだ。彼の中から出てきたものは、二年で一つもなかった。
それでも、私は行った。
六百回以上、行った。
◇
エラが、その答えを出してしまった。
記録は忘れないために、あるんじゃない。
忘れてもいいように、あるんだ。
覚えていなくても、その人がそこにいたことは消えない。書いてあるから。誰かが、読める。
――だったら。
リゲルは、もう埋め直さなくていい。
手帳を渡して、好きなときに読めばいいと言えば済む。私が毎晩、あの部屋に行く必要はない。
二年。六百回。
私は、いらない仕事を、していた。
◇
……いや。
違う。
そう書いて、私はペンを置いた。
焚火の音がしていた。ガロさんが、鍋を静かに置いた。私は、しばらく動けなかった。
違う。
埋め直しは、リゲルのためじゃなかった。
あの人は、埋め直されなくても、生きていける。名前は出てくる。顔も分かる。何をしてくれたかも知っている。中身がないだけだ。中身がなくても、あの人は狩りをするし、隊を率いるし、子供を助ける。困っていない。
困っていたのは、私だ。
私が、毎晩、行っていたのは。
忘れられたくなかったからだ。
話しているあいだ、あの人は、私を見る。書いているあいだ、あの人は待っている。その四半刻だけ、私は、あの人の中にいた。
やめたら。
私は、あの人の中から消える。
三十一人と、同じところへ行く。
◇
ひどい話だ、と思う。
私は記録者ですと、言った。灰の同盟の男たちに。運び屋に。ミレアさんに。名前は命の入れ物ですと、偉そうに言った。
言いながら、私が二年やっていたのは、自分の名前をあの人の中に置き続けることだった。
記録じゃない。
居座りだ。
◇
五十一人。
数え直した。四十一。名前の分からない、六人。マナ。エラ。ヨナ。リノ。
五十一人。
重い。
リゲルにそう言った。四十四人になる、重いなあ、と。あのとき、私は、少し格好をつけていた。重いものを持てる人間の言い方を、していた。
今は、違う言い方が、できる。
この重さは、私が選んだ。
エラは、選んだ。読めない字を二十回読ませて、それから選んだ。リノも、選んだ。二年待った弟の隣に、自分の名前を、書けと言った。ヨナは、たぶん選んでいない。石を選んだだけだ。
それでも、私が預かった。
預かるのは、奪うのとは違う。
奪ったものは、返せない。返す相手が、いなくなるからだ。
預かったものは、返せる。
相手が、生きているから。
◇
ただ、一人。
私の帳面に、書けない子がいる。
リタちゃんだ。
あの子の名前は、誰も取っていない。教会の名簿にも、まだ載っている。ミレアさんの、妹。名前は、リタ。どこにも、線は引かれていない。
取られたのは、名前じゃない。
名前の、中身だ。
おねえちゃん、と言うと、ここが、なんにもならないの、と、あの子は言った。胸を押さえて。
私の帳面は、名前しか、預かれない。
中身の預かり方を、私は知らない。
……そして、もう一人。
同じ理由で、書けない人が、いる。
リゲルの名前も、誰も取っていない。
私の帳面は、五十一人を救える。
一番、救いたい二人が、そこに入らない。
◇
その夜、宿は取らなかった。街道の脇で、火を焚いた。
私は、三冊目を開いた。
蝋燭ではなく、焚火の光で読むのは、久しぶりだった。字が揺れる。四十一の名前が、揺れる。名前の分からない六人の空白が、揺れる。マナの行が、揺れる。エラ。ヨナ。リノ。
全部、そこにあった。
それから、私は気づいた。
気づいて、しばらく、ペンが持てなかった。
◇
この帳面に。
私が、いない。
五十一人の名前を、私は、持っている。
誰も、私の名前を持っていない。
◇
リゲルは、いつか私を忘れる。
分かっている。二年、そればかり見てきた。ドッズさんが消えて、メイセンさんが消えて、ヘズラさんが消えて、そのたびに、あの人は、少しずつ軽くなっていった。私は、それを全部書いた。書きながら、次は誰かを、数えていた。
数えなくても、分かる。
残っているのは、もう、あまり多くない。
――忘れたとき。
あの人は、どうやって、私を思い出すのか。
私の手帳を、読む。
私の手帳には、五十一人の名前が、書いてある。
私の名前は、ない。
◇
ペンを、取った。
五十一人の、その、後ろ。まだ何も書かれていない、頁を。
手が、震えた。
二年、他人の名前ばかり書いてきた手が、自分の名前を書くのに、震えた。
書くまでに、たぶん百を数えた。
それから、書いた。
『ニラ。二十歳。ヴェルデの冒険者ギルド、元・受付。この帳面を、書いた人。
リゲルの村の、隣の家の子。丘を下りるとき、先に歩いた。振り返ったら、彼も泣いていた。理由は、聞かなかった。
……忘れられたら、誰か、返してください』
◇
書いて、閉じた。
焚火が、爆ぜた。ガロさんが、鍋を、火にかけた。ヴァンネスさんが、下手な鼻歌を歌っていた。コッツくんが、リタちゃんに、石を投げる遊びを、教えていた。ミレアさんが、それを止めていた。
リゲルは、少し離れたところで、荷馬車の車輪を見ていた。明日の轍のことを、考えているのだ。あの人は、いつも、明日の地面のことを考えている。
私は、手帳を胸に抱えた。
五十二人分。
少しだけ、重くなった。
それから、私は笑った。
あの子の言い方を、借りるなら。
忘れてもいい。
かいてあるもん。




