第103話「名の無い男」
布が落ちた。
三枚の水晶が台に立った。
目盛りが振れる音を俺は、聞いた。
音などしない。金属の針が銀の目盛りを走るだけだ。だが、俺には、聞こえた。
五歩。板一枚。
三枚の板が一斉に端まで行った。
男は、動かなかった。長いこと、動かなかった。
それから。
顔を上げた。
節穴の向こうで、床の影がこちらへ、伸びた。
「――そこにおられるのは、承知しております」
◇
俺は、立った。埃を払わなかった。板戸を開けた。
記録室は、蝋燭が二本。壁一面の綴じ帳。机の上に三枚の水晶。
灰色の男がこちらを見ていた。
初めて顔を正面から、見た。
若くも老いてもいない、印象の残らない顔だった。人の顔を覚える仕事を、していない人間の顔だ、と俺は思った。
男は、剣に手をかけなかった。呼びもしなかった。
トゥーレは、壁際で立ち尽くしていた。
「――なぜ、呼ばない」と、俺は言った。
「呼べば、あなたは、逃げます」
男の声は、平らに戻っていた。
「逃げられたら、記録に書かねばなりません。星喰らいがこの街におった、と。……書けば、この街の三人の死が、疑われます。掘り返されます」
俺の喉が鳴った。
「――三人は」
「熱病で死にました」
男は、机の綴じ帳に目を落とした。
「そこにそう、書いてあります」
◇
沈黙があった。蝋燭が細く、燃えていた。
何者だ、と俺は聞いた。
「第七検定士。……教会の検定士は、番号で呼ばれます。盤を一枚、預かるごとに一つ。わたしのは、七枚目です」
名は、と聞いた。ございません、と男は答えた。俺は、言葉を失った。失ってもう一度、名は、と聞いた。ございません、と男は繰り返した。捨てました、十九のときにと。捨てた、と俺は聞き返した。はい、と男は答えた。
蝋燭の光が男の頬に影を作らなかった。彫りのない顔だ。二十二年、誰の記憶にも残らなかった顔だった。その顔から、名前だけが先に抜けていたのだ。
「――なぜ」
男は、水晶を一枚ずつ、台から外し始めた。手つきが丁寧だった。二十二年、同じ手つきで同じことをしてきた男の手だった。
「測る者に名は、要りません」
「……」
「名があると」
男の手が一瞬、止まった。
「――顔を見てしまいます」
◇
俺は、壁を見た。
床から天井までの、二十年分の紙を。その前に立っている、痩せた老人を。
顔を見るから、書かずにいられなくなった男。
顔を見ないために名を捨てた男。
同じ部屋に二人、いた。どちらも、記録する男、だった。
二十年四百十二人の顔を、覚えて誰にも読まれない紙を、積んだ男が一人。
二十二年数えきれぬほどを測って、一人も覚えなかった男が、一人。
どちらが正しいのか。
俺には、決められなかった。
決められないまま、俺は、片方を選んでいる。
「――トゥーレさん」と、検定士が言った。
老人が顔を上げた。
「あなたの綴じ帳を、十冊、読みました」
「……」
「二十二年、この仕事をしております。四百十二人の顔を、覚えとる記録係に、会うたのは初めてです」
男は、水晶を布に包んだ。
「わたしは、二十二年で数えきれぬほどを測りました。……一人も、覚えておりません」
包んで箱に納めた。蓋が閉じた。
「――一度だけです」
男は、言った。
「この街に適合の器は、ありませんでした。三人は、熱病で死にました。それがわたしの記録です。……次は、ありません」
◇
男が箱を抱えた。扉へ、歩いた。
その背中に俺は、言った。
「――待て。なぜ、俺を測った」
「測っておりません」
「……」
「測れんのです」
男は、振り返った。
「わたしの盤は、三枚あります。角度が違います。器の深さと、広さと、底の、抜け方を別々に読むためです。……一枚だけの古い盤は、色しか、出ません。色は、器の大きさを教えます。ですが大きい器と、底の抜けた器は、色では区別がつきません。二十二年前、わたしが最初に測った子は、そうやって選ばれ損ねました。……エラという子は、二枚でした。二枚が振り切れて一枚が残った。あれで適合です」
「俺は」
「三枚です」
「……」
「三枚とも、振り切れました。……いえ」
男は、言い直した。
「振り切れてその先へ、行きました。目盛りの、外へ。……盤があなたを測っておりません。あなたが盤の外におられるのです」
俺は、動けなかった。
「二十二年で初めてです」
「……そんなものが、いるのか」
「おりません」
男は、言った。
「だから、伺いたいのです」
蝋燭が揺れた。
「――あなたをこうして育てた者がおられますね」
◇
俺の指先が冷たくなった。
「……なぜ、そう思う」
「盤は、二十二年で精度を上げました。空の器を選り分けるために。……ですが」
検定士は、箱を抱え直した。
「あなたのような器は、選り分けて出るものでは、ありません」
「……」
「育てるものです」
男の、印象の残らない顔が、初めて俺をまっすぐ見た。
「わたしは、測る者です。測る者には、分かります。……あなたは、獲れたのでは、ない」
扉が開いた。朝の光が紙の匂いの部屋に、入ってきた。
「飼われたのです」
扉が閉じた。
◇
その日の昼、教会の馬車が養育院の門に着いた。
席が三つ。誰も乗らなかった。
院長が青くなって、何度も頭を下げた。熱病でと綴じ帳を差し出した。御者は面倒くさそうに、それを読みもせずに突き返した。灰色の男は、門の外の日陰に立っていた。綴じ帳を見なかった。何も言わなかった。
空の馬車が丘を下っていった。
街の連中は少しがっかりした顔をして、それから、いつもの仕事に戻った。揚げ菓子の屋台が片付けられた。今年も、めでたいことは無かった。
いい街だった。どこまでも、いい街だった。
◇
その夜、街外れの窯に運び屋が来た。
荷馬車が一台。ヴァンネスが灰の同盟の伝手で繋いだ、リディアからの男だ。
三人が乗った。
リノは、乗る前にニラの手帳をもう一度見せてくれと言った。見せた。少年は二つの行を指でなぞった。『ぼくは、トト』と、その隣に書かれた自分の名前を。それから頷いて、荷台に上がった。何も言わなかった。
ヨナは石を握っていた。乗るときも、座ってからも、ずっと。
エラは、ガロに背負われて荷台まで来た。大盾使いがその体をそっと降ろした。
リタが窯の陰から出てきた。ミレアが止めようとして、やめた。
二人の少女は、荷台を挟んで向かい合った。何も言わなかった。手も繋がなかった。裏庭の長椅子のときと、同じだった。
それから、リタが聞いた。
「……あなた、なまえ、なに」
エラが目を丸くした。
「エラだよ」
うん、とリタが言った。さっき言った、とエラが言った。荷台の板が軋んだ。運び屋の男が手綱を握ったまま、こちらを見ないでいてくれた。うん、とリタが言った。忘れたのか、とエラが聞いた。
「ううん」リタは首を振った。「もういっかい、ききたかったの」
エラは、しばらくその顔を見ていた。それから、笑った。
「――エラ」
「うん」
「あなたは?」
「リタ。……たぶん」
「たぶん、じゃないよ」
十歳が十歳に言った。
「よんでもらったら、いいよ。なんかいでも」
リタは、頷いた。頷いてそれきり、何も言わなかった。
二人は明日、たがいの顔を忘れているかもしれない。片方は忘れる器で、もう片方は、名前を変えて遠い街へ行く。
それでも今、二人はたがいの名前を、一度ずつ声に出した。この二人にできることの、全部だった。
◇
少女は荷台の縁から、俺たちを見た。それから、言った。
「――エラ」
「ああ」
「わたしの、なまえ。エラ」
「ああ」
「わすれないで」
ニラが頷いた。頷いて手帳を掲げた。
「忘れない」
「わすれても、いい」と、少女は言った。
俺たちは、動きを止めた。
「かいてあるもん」
◇
荷馬車が夜の街道へ消えた。四十九人目、五十人目、五十一人目を乗せて。
俺はその灯が丘の向こうに沈むまで見ていた。隣でニラが手帳を抱えていた。抱え方が少しだけ変わっていた。
重い、と彼女は言った。その重さの持ち方を、この女は覚え始めている。
◇
発ったのは、二日後だった。
トゥーレが門まで見送りに来た。二十年、街に友人を作らなかった男が、門の外まで出てきた。
綴じ帳は、抱えていなかった。あの離れの、壁の中にある。四百十二人と、線を引かれた一人と、線を引かれた三人が、あの部屋でこれからも誰にも読まれずに積まれていく。
「――トゥーレ」
「なんじゃ」
「あんたも、来るか」
老人は、笑った。初めて見る、笑い方だった。
「誰が次の子の、熱を書く」
それだけだった。
荷馬車が動いた。
俺は、振り返らなかった。
振り返る場所が、この街道の、どこにあるかを。
知っていたからだ。




