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継承者は忘れていく ~才無しと蔑まれた狩人は、敵を狩るたび最強に近づき、大切な記憶をひとつずつ失っていく~  作者: あおあお


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第102話「壁一枚」


支度は、一日で終わった。ミレアだけが、三日かけていた。


三人分の病状書だ。発熱の初日から、死ぬまで。熱の上がり方と下がり方、発疹の出る順序と場所。この女はそれを、記憶だけで書いた。書物も、症例集も無い。薬草の効能が三百入っている頭から、そのまま引き出した。


「……これ、通ると思う?」


三日目の夜、書き上げた紙を差し出しながら、彼女はそう聞いた。指の腹に、インクが乾いていた。


「通る」と、俺は答えた。


◇


配置は、狩りと同じにした。


ガロとヴァンネスは東門。教会の馬車が丘を上がってきたら、笛を一度。コッツは養育院の屋根。ミレアとリタとニラは宿に。動くな、と言ってある。


俺だけが離れに入った。一番危ない場所に、一番危ない人間が入る。それが結局、一番安全だった。他の誰も、あの箱を鳴らさない。


五層の壁で、俺は隊にこう言った。今日の狩りは九割が待ちだ、と。仕掛けが全部嵌まるまで、誰も、何があっても決められた場所から動くな、と。


あのときは、俺が笛を吹く側だった。


今日は、吹けない。


◇


物置は、記録室の隣にあった。壁は板一枚だ。二十年前に建て増した安普請で、節穴が三つある。俺は一番低い穴の前に、腹這いになっていた。


見えるのは、床と、机の脚と、蝋燭の台だけだった。


それでいい。顔は要らない。


◇


灰色の男が、入ってきた。


足音で、分かった。一歩目で、この男が右利きだと分かる。二歩目で、体重が踵に乗っていると分かる。三歩目で――


――こいつは、剣を使う。


ドッズの、足運びだった。


いや。ドッズが俺に置いていった、読み方だった。あの男は、対人の間合いだけで生きてきた。人間の足運びから、腰の高さ、肩の残り、次の一歩を聞き取る。それを俺は、あの男を殺した夜に、丸ごと貰った。


貰ったものが、こういうときに、勝手に働く。


灰色の男は、聖騎士の護衛では、なかった。


測る男が、剣を使う。


その二つが、俺の頭の中で、噛み合わなかった。


◇


布を巻いた箱が、机の端に置かれた。音で分かった。硬い底が、木の板に触れるあの音。


俺の背骨が、冷えた。


三十歩。


板一枚を隔てて、俺と箱は、五歩と離れていない。布が解かれ、三枚の水晶が台に据えられ、目盛りが読まれた瞬間に、この街は終わる。


だが、逃げなかった。逃げれば、床が鳴る。


待つというのは、動かないことじゃない。


じいさんは、そう言った。待つのは、動く一点を選んで、それ以外の全部を捨てることだ、と。岩陰で半日、蚊に食われながら、十二の俺にはその意味が分からなかった。


今、分かった。


俺が動いていい一点は、この一日のうちに、たぶん一つも無い。


◇


「――綴じ帳を」


男の声は、平らだった。


紙が、机に置かれた。頁が繰られた。


一枚。


二枚。


速い。この男は、読んでいない。数字だけを、拾っている。


頁が、止まった。


「三人」


「はい」


トゥーレの声は、いつも通りだった。


「エラ。ヨナ。リノ。……先月、適合と判じた、三人だ」


「はい」


「死んだ」


「……はい」


「同じ月に、三人」


紙が、こすれた。


「――冬でしたら、珍しくもございません」と、トゥーレが言った。「一昨年の冬は、四人でした」


「今は、夏だ」


沈黙。節穴の向こうで、蝋燭の火が、まっすぐ立っていた。


◇


「熱病、とある」


「はい」


「読み上げよう」


男が、読んだ。


ミレアが三日かけて組み上げた、三人分の病状だった。発熱の初日。二日目の発疹の出る順序。四日目に一度下がって、五日目に跳ね上がる。子供の熱病の、教科書のような経過。


治療術士が、本気で書いた偽物だ。


男は、最後まで、読んだ。読み終えて、静かになった。


長い、静けさだった。


俺は、床板の匂いを、嗅いでいた。埃と、粘土と、古い紙。心臓の音が、耳の中で、鳴っていた。


それから、男が、言った。


「――これは、誰が書いた」


「わしです」


「あんたは、記録係だ」


「はい」


「医者ではない」


「院に、医者はおりません」


「では、なぜ」


男の足が、動いた。半歩。机の方へ。


俺は、その半歩の意味を、聞き取った。詰めた。この男は、今詰めた。


「――なぜ、あんたは、発疹の出る順序を、知っている」


トゥーレは、答えなかった。


「この記載は、正しすぎる」


俺の掌が、床板を掴んだ。


ガロの声が、頭の中で鳴っていた。


――理屈が通りすぎるときは、どっかで間違えてる。


数えた、つもりだった。


数え損ねていたのは、俺たちの方だった。


ミレアは、本物の治療術士だ。だから、本物より正しく書いた。二十年、紙に名前を書いてきただけの男の手から、そんな記録は出てこない。


完璧な偽物は、偽物だと名乗っている。


◇


「――お読みください」


トゥーレの声が、した。


「なんだと」


「壁を」


椅子が鳴った。男が立った。


「この部屋の壁です。床から天井まで。二十年分、全部あります。……四百十二人分です」


「……」


「どれでも、お好きな年を、お出しください」


沈黙。


それから、板が擦れる音。棚から、綴じ帳が、抜かれた。頁が、繰られる。


さっきより、遅い。


この男は、今度は、読んでいた。


別の一冊が、抜かれた。また、頁の音。


三冊目。


四冊目。


蝋燭の芯が、爆ぜた。


男は、何も言わなかった。長いこと、何も、言わなかった。紙の音だけが、板一枚の向こうで、続いていた。


◇


俺は、床に頬をつけたまま、その音を聞いていた。


二十年分の紙が、繰られていく音を。


あの部屋の壁は、四百十二人の子供で、できている。


その全部に、熱の出た日と、発疹の順序と、いつ下がって、いつ跳ね上がったかが、書いてある。書いてあるに、決まっている。


なぜなら。


二十年前、この男は門の前で、八つの子供を三日、見ていた。


なぜ入れてもらえないのか、分からないまま、死んだ子供を。


そういう男が、その次の日から、何をするか。


全部、書くのだ。


一人残らず。熱が出たら、何日目に何が起きたかを。二度と、見落とさないために。二度と、知らなかったと、言わないために。


誰にも、頼まれていない。誰も、読まない。二十年、誰一人、あの壁を開いた人間はいない。


それでも、書いた。


悔いというものが、字の形をとると、ああなる。


◇


十冊目の音が、止まった。


「――あんたは」


男の声が、初めて平らでなくなった。ほんの、少しだけ。


「なぜ、こんなに、書く」


トゥーレは、少し、間を置いた。それから、言った。


「顔を、見とるからです」


「……顔」


「名前は、誰でも書けます。名簿を見れば、済みます。……ですが、それでは、書いた名前と、子供が、繋がりません」


紙の音が、しなかった。


「だから、顔を見ます。一人ずつ。……見た子のことは、書かんと、収まりが悪うなる」


長い、沈黙。


それから、綴じ帳が閉じられた。音は静かだった。


男はそれを棚に戻した。抜いた場所へ、きちんと。


◇


「――三人の墓は」


「共同の穴です。丘の北に。……名前を消された子には、石を立てられませんので」


「掘るか」


「お好きに」


トゥーレの声には、何もなかった。


老人は二十年前に、一度、掘られる側に立っている。あの穴に何が入っているかを、この男より、よく知っている。


男は、動かなかった。それから、机の方へ戻った。


足音が、二歩。


三歩。


止まった。


箱の前で。


◇


俺の呼吸が、止まった。


板一枚。五歩。


布が解かれれば、三枚の水晶が、台に立つ。目盛りが、振り切れる。男は顔を上げて、この壁を見る。


逃げるか。


床が鳴る。鳴れば、同じことだ。


動くな。


じいさんの声だった。


――追われとると思うな。獣は、逃げる背中しか、追わん。


俺は、床に指を立てた。


立てて動かなかった。


◇


布が。


擦れた。


結び目が解かれる音。


布の乾いた細い音が。板一枚の、向こうで。


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