第101話「三つの名前」
ヨナは、八つだった。
話を聞いているあいだ、ずっと、掌の中の何かを、握っていた。全部話し終えて選べと言ったとき、この子が最初に聞いたのは、こうだった。
「これ、もってっていい?」
掌が、開いた。
石だった。親指の先ほどの、白っぽい、丸い石。粘土の丘なら、どこにでも転がっている。値打ちは、無い。
「……いいぞ」
「ほんと?」
「ああ」
ヨナは、頷いた。それから、こう言った。
「じゃあ、いい」
選んだという顔では、なかった。話の半分も分かっていない顔だった。
俺は、聞き直した。
「ヨナ。あんた、明日から、ヨナじゃなくなる。別の名前になる。それでも、いいのか」
「うん」
「なんで」
「だって」
八つの子供は、石を、握り直した。
「これ、もってっていいって、いった」
ミレアが、後ろで、息を詰めた。
この子が守りたかったのは、名前ではなかった。石だった。
誰が、それを、間違いだと言えるのか。
俺は、この子に、四十七の寝台の話をした。番号の話をした。名前を消されるということが、どういうことかを、十歳に分かる言葉を探して、探しきれずに、そのまま言った。
全部、届いていなかった。
届いていたのは、石を、持っていっていいかどうか、それだけ、だった。
トゥーレは、選ばせろと言った。マナに教えなかったことを、二十年、悔やんだからだ。教えれば、選べる。選べれば、生きたかもしれない。あの老人は、そう信じている。
だが、八つには、教えても届かない。
届かないものを、教えてそれでも、選ばせる。
それは、優しさなのか。それとも、また、別の顔をした、怠けなのか。
俺には、分からなかった。
分からないまま、ヨナの掌の石を、いいぞ、と言った。
この子の一生を決めたのは、たぶん、その一言だ。
◇
リノは、十二だった。
話を、最後まで、黙って聞いた。聞き終えて、こう言った。
「――いやだ」
部屋が、静まった。
「おれは、いく。うまやに」
「リノ」
「あんたら、うそだ」
少年は、俺を、睨んだ。
「えらばれたんだ。おれは。……ここに十二年いた。十二年だぞ。はじめて、外に出られるんだ。それを、よそもんが来て、あぶないからやめろって」
「あぶないんじゃない。死ぬんだ」
「しなねえよ」
「――なぜ、そう思う」
リノの顎が、動いた。
その一瞬の動きを、俺は、読んだ。狩人の癖だ。この年頃の男が、言いたくないことを飲み込むときの、顎の動き。
「……リノ。あんた、リディアに、誰かいるのか」
少年の顔が、止まった。止まって、崩れた。
「――弟が、いる」
誰も、動かなかった。
「トト、っていう。二年前だ。二年前の巡回で、えらばれた。……八つだった。おれが、見送った。手ぇふって」
リノの声が、震え始めた。
「たより、こねえんだよ。二年、いっぺんも。……院長は、忙しいんだろって言う。えらいさんになってんだろって。……おれは、待ってた。二年。……で、今年、おれが、えらばれた」
少年は、拳で目を擦った。
「やっと、会えるんだ」
◇
ニラが、動いた。
手帳を開いた。手が震えていた。頁を、繰る。四十一の名前の、二枚目。
彼女の指が、止まった。
「……リノ。弟さんの名前、もう一度、言って」
「トトだよ」
ニラは、その頁を、少年の前に置いた。指で、一つの行を示した。
「これ」
リノは、読めた。十二だから、少しは、読めた。
『ぼくは、トト』
少年の呼吸が、止まった。
「……なに、これ」
「〈星の間〉の、寝台の裏に、刻んであった名前」
「……」
「爪で。書いたの。その子が、自分で」
リノは、その行を、見ていた。見て、それから、顔を上げた。
「……いきてんのか」
「――分からない」
ニラは、正直に、言った。
嘘をつけば、この子は逃げる。逃げて、生きる。二年待った弟が生きていると言えば、それで、済む。
この女は、それを、しなかった。
「同じ名前の子は、いる。トトなんて、大陸中にいる。……この子が、あなたの弟かどうかは、分からない」
「じゃあ、なんで見せた!」
「――でも、この子は、生きてる」
ニラの声が、はっきりした。
「私たちが、四十七人、〈星の間〉から連れ出した。三十日前。全員、生きてる。トトも」
リノが、椅子から、立ち上がった。
「どこだ」
「分からない」
「――は?」
「運び屋が、大陸中に散らした。名前を変えて。……どこの街の、どんな名前になったか、私たちも、知らないの。知らないようにしたの。知ってたら、拷問されたら喋るから」
リノの顔から、色が、消えた。
「……にがしても、会えねえのかよ」
少年の声は、ほとんど、悲鳴だった。
「じゃあ、おなじじゃねえか! おれが行かなきゃ、一生、会えねえ! あんたらは、弟をどっかに隠して、おれには、名前を変えて別の街に行けって、それ、おんなじことだろうが!」
◇
俺は、待った。少年が、息を切らすまで。
待ちながら、俺は、この子が正しいことを、考えていた。
四十七人を散らしたのは、俺の判断だ。リディアの、あの水路の出口で、俺が決めた。
名前を変えて大陸に撒く。どこにいるか、誰も知らない。知らないから誰も喋れない。喋れないから誰も追えない。
完璧だった。
完璧だから、あの子たちは誰にも見つけてもらえない。
兄が探せない。
母が探せない。
三十日前、俺は、あの子たちを教会から救い出した。
同じ手で、あの子たちを、この世界から隠した。
リノの言う通りだ。おんなじことだ。
――違う、と言えるとしたら。
一つしか、ない。
「――ニラ。その帳面を、リノに渡してくれ」
ニラが、俺を見た。それから頷いて、手帳を少年の手に乗せた。
「リノ。その帳面が、何のためにあるか、分かるか」
「しらねえよ」
「待ち合わせの、場所だ」
少年の指が、革の表紙を、握った。
「トトは、いつか大きくなる。大きくなったら、探すはずだ。自分が誰だったかを。兄貴がいたことを。……そのとき、あいつが最初に探すのは、この帳面だ。ここにしか、『ぼくは、トト』は、残ってない」
「……」
「あんたが明日、馬車に乗れば、あんたの名前は、教会の帳面に消される。トトが探しに来ても、あんたは、どこにもいない。……あんたが逃げれば、あんたの名前は、この帳面に、載る。トトと同じ頁に」
俺は、リノの手の中の、手帳を指した。
「同じ帳面の、隣に、二人の名前が並んでる。……いつか、片方が取りに来る」
リノは、動かなかった。長いこと、その頁を見ていた。
それから、掠れた声で、聞いた。
何年かかる、と少年は聞いた。分からない、と俺は答えた。十年か、と聞いた。かもしれない、と答えた。二十年か、と聞いた。かもしれない、と答えた。少年は、数字を一つずつ置いていった。値切っているのではない。自分が耐えられる長さを、手探りで、探していた。二十まで置いて、それでも「かもしれない」が返ってきたとき、この子の肩が、震えた。
少年の肩が、震えた。
「――待つのかよ、また」
「ああ」
「二年、待ったんだぞ、おれは。……ふゆに、いっかい、もんのとこで、まる一日、たってたことがある。てがみが、くるかもしんねえと、おもって。……こなかった。あたりまえだ。あいつ、じが、かけねえもん。おれが、おしえてやるまえに、いっちまったから」
「知ってる」
「……」
「だが、馬車に乗ったら、待つことも、できない」
リノは、手帳を、胸に、押しつけた。押しつけて、そのまま、しゃがみ込んだ。
声を上げずに、泣いた。十二の男が、人前で泣くまいとして、失敗する、あの泣き方だった。
「……かいてくれ」
「え?」
「かいてくれよ! おれの名前! ……トトの、となりに!」
◇
ニラが、書いた。
その日、三つの名前が、増えた。
エラ。ヨナ。リノ。
四十一と、名前の分からない六人と、マナと、その、次に。四十七の頁は、五十一人分に、なった。
トゥーレが、離れの机で、綴じ帳を開いたのは、その夜だった。老人はペンを取って、しばらく、動かなかった。
二十年前、同じ手で、同じ線を引いた。
それから、引いた。三本。
手は、震えなかった。
◇
三人が院を出たのは、その夜遅くだった。
コッツが手引きした。閂は、鳴らなかった。この小僧の仕事に、音は無い。
隠し場所は、街外れの、使われていない窯だった。粘土を焼く釜は、火を落とせば、ただの石の穴だ。誰も見に来ない。運び屋が来るのは、明日の夜。
エラを、ガロが背負った。足の悪い子を、大盾使いの背中が運んだ。少女は、その広い背中の上で何も言わずに、街の灯を見ていた。
全部、静かに済んだ。
誰も、攫っていない。誰も、戦っていない。街は今日と同じで、明日も、いい街のままだ。
◇
宿に戻ったのは、夜半だった。
階段を上がったところで、コッツが、影から出てきた。いつもの、へらへらした顔が、無かった。
東門が、さっき開いた、とコッツは言った。この小僧は走ってきていない。走れば足音が残るからだ。息だけが、上がっていた。夜だぞ、と俺は言った。開いたんだよ、と小僧は言った。馬が二頭。荷は無し。先触れだ。教会か、と聞いた。ああ、と答えた。
小僧は、唾を、飲んだ。
「――灰色のがいた」
俺は、動かなかった。
「見間違いじゃねえ。あの背中は、覚えてる。あいつ、迎えの馬車と一緒に来るはずだったろ。明日の朝に。……一日、早ぇんだ」
廊下の、油灯が、揺れていた。
「兄貴。……なんで、あいつが、戻ってきた」
俺は、答えなかった。答えは、たぶん分かっていた。
◇
その夜、俺は寝台に横になって、名前を、唱えた。
母。セラ。父。ドルク。じいさん。ベテル。ガロ。ミレア。コッツ。ヴァンネス。ドッズ。ヘズラ。メイセン。ロコ。ジフ。三十一人。ミナ。トト。サラ。四十一の名前。名前の分からない、六人。マナ。エラ。ヨナ。リノ。リタ。
そして、ニラ。
唱え終えて、俺は、天井を、見ていた。
いつもなら、ここで、眠る。
眠れなかった。
明日、あの男が水晶を持って、この街に立つ。
三十歩先の、俺を鳴らす鈴を。




