第100話「えらばれた」
養育院の裏に、小さな庭があった。庭というより、物置と壁のあいだの空き地だ。粘土の地面に、縫い物用の長椅子が二つ置いてある。日当たりだけは、よかった。
トゥーレが、そこにエラを連れてきた。名目は、街の行商の娘が院を見物に来た、ということになっていた。誰も疑わなかった。院長は明日の馬車の支度で、朝から市場を走り回っている。
俺とニラは、物置の陰にいた。見えるが、聞こえない距離。それが、俺たちの譲れる限界だった。
◇
二人の子供が、長椅子に並んで座った。
エラの右足が、椅子から少しだけ浮いていた。膝から下が、細い。座ると、その足だけが、宙に垂れる。
リタは、その足をじっと見ていた。
「――みる?」
エラが言った。慣れた言い方だった。人に足を見られるのが、この子の日常なのだ。だから、見られる前に、自分から差し出す。そうすれば、こそこそ見られなくて、済む。
リタは、首を振った。
「みない」
「みてもいいよ」
「みない」
リタは、それきり、その足を見なかった。エラが、少し黙った。
◇
「あした、いくんでしょ」と、リタが言った。
「うん! えらばれたの、わたし」
エラの顔が、明るくなった。
なぜ選ばれたのか、とリタが聞いた。エラは、しらないと答えた。しらないけど、みんなが手を叩いた。おばさんも叩いた。いんちょうせんせいも叩いた。あと、あげがしのおみせのひとが、ただでひとつくれた――そう言いながら、少女は指を折って、褒めてくれた人間を数えていった。十歳の子が、片手で足りる数を、わざわざ折って、数えていた。数え終えて、まだ足りないという顔で、もう一度、最初から数え直した。
リタが頷いて、自分も選ばれた、と言った。どこへ行ったのか、とエラが聞き返した。
「しろい、ところ」少女は、掌を、上に向けた。「ねてた。ずっと、ねてた。おきたら、おわってた」
「いいなあ。ねてていいの?」
「……わかんない」
◇
物置の陰で、ニラの指が、腕を、叩いていた。
頭の中に、書いているのだ。二人の子供の、言葉を。一言も、落とさずに。
◇
「あのね」と、リタが言った。
「なに」
「わたし、おねえちゃんが、いるの」
「いいなあ」
エラの声が、少し、変わった。羨望というより、遠いものを見る音だった。
「わたし、いない。おかあさんも、しんだ。……だから、へいき」
「そう」
リタは、しばらく、地面を見ていた。それから、言った。
「……いいのかな」
「え?」
「わかんないの」
リタは、自分の胸を掌で押さえた。あの、いつもの場所を。
「おねえちゃんって、ゆうと」
「うん」
「ここが、なんにも、ならないの」
エラは、意味が分からない顔をした。分からないまま、行儀よく、頷いた。
「……ふうん」
◇
届かない、と、俺は、思った。
当たり前だ。失うものが、ない子に、失う話は、届かない。
エラには、母も、いない。姉も、いない。友達も、たぶん、いない。足のせいで、この子は院の中でも、ずっと隅にいた。
この子から、取れるものなど、教会にも、無い。
そう思いかけて。
俺は、間違いに、気づいた。
一つ、ある。
◇
「なまえ、なに?」
エラが、聞いた。世間話のつもりだった。ただの、子供の、次の話題だった。
「……リタ」
リタは、答えた。答えてから、少し、間を置いて、付け足した。
「たぶん」
エラの首が、傾いた。
「たぶん?」
「うん」
「なんで、たぶんなの?」
リタは、地面の粘土を、爪先で、少し掻いた。
「おねえちゃんが、そういうから」
◇
エラが、動かなくなった。
十歳の子供が、頭の中で、何かを、確かめている顔だった。
「……じぶんで、おぼえてないの?」
「うん」
「じぶんの、なまえ?」
「うん」
エラの、両手が、膝の上で、握られた。
十歳の子供が、そこで、黙った。
黙って、自分の口を動かした。声は出さなかった。ただ口の形だけで、何かを二回、言った。
あとで、ニラが、教えてくれた。あの子は、こう言ったのだ、と。
――え、ら。
自分の名前を、口の中で、確かめていた。
まだ、あるかどうかを。
「……なんで、わすれたの。じぶんの、なまえなのに。ひとの、なまえじゃ、ないのに」
「わかんない」
◇
エラが、立ち上がった。足が悪いので、立つのに、手を、つかなければならない。それでも、立った。
「――エラ、って」
声が、震えていた。
「エラって、おかあさんが、つけたの。いんちょうせんせいが、いってた。うまれたとき、おかあさんが、いっかいだけ、そう、よんだって。それで、しんだって」
リタは、座ったまま、見上げていた。
「わたし、おかあさんの、かお、しらない。こえも、しらない。なんにも、しらない。……いっかいだけ、よんでもらったのに、それも、きいてない」
エラの、細い右足が、震えていた。体を支えきれずに、震えていた。
「なまえだけ、なの」
少女は、自分の胸を、掴んだ。リタが押さえていたのと、同じ場所を。掌ではなく、拳で。
「……それしか、ないの」
◇
俺は、物置の陰から、出た。
ニラが、袖を、掴んだ。まだ早い、という意味だった。
だが、俺は、行った。泣いている子供を、大人が見ていながら隠れているのは、優しさじゃない。
エラが、俺を見た。剣を差した、知らない男を。だが、逃げなかった。逃げる足が、この子には、ない。
俺は、少し離れて、しゃがんだ。目の高さを、合わせた。
「――エラ」
「……」
「明日の馬車が、どこへ行くか。話す」
俺は、話した。
全部、話した。
白い部屋。四十七の寝台。番号。三段の篩。耐えなかった器が、空の寝台に、なって、運ばれていくこと。そして、耐えた器から、何が、押し出されるか。
十歳に、分かる言葉を、探しながら。探しきれずに、そのまま、言った言葉も、あった。
エラは、途中から、泣かなかった。泣くのをやめて、聞いていた。
話し終えたとき、少女は、長いこと、黙っていた。それから、聞いた。
名前も取られるのか、と少女は聞いた。ああ、と俺は答えた。返してくれないのか、と聞いた。返せない、と答えた。なんで、と聞いた。十歳が、なんで、と聞いた。俺は、その一言に答えられる大人でありたかった。
「――誰も、持ってないからだ」
俺は、言った。
「教会は、名前を、消すだけだ。消したものは、誰の手にも、残らない。だから、返そうと思っても、返す相手が、いない」
エラは、頷いた。それから、しばらくして、また、聞いた。
「にげたら、どうなるの」
「あんたは、明日、死んだことになる。この院の帳面から、名前が、消える。……その代わり、別の街に行ける。飯が食える。奉公にも出られる。だが、名前は、変わる」
エラの顔が、上がった。
「かえるの?」
「変える」
少女は、俺を、見ていた。見て、それから、呟いた。
「……じゃあ、おなじじゃない」
◇
そこだった。
この子は、たった今、二つの道を、見比べた。
教会に、行けば、名前を、取られる。逃げても、名前は、変わる。どちらでも、母がくれたものは、無くなる。
十歳が、半刻で、二十年前のトゥーレの場所まで、辿り着いた。
「――違う」と、俺は言った。
「どこが?」
俺は、後ろを、振り返った。ニラが、物置の陰から、出てきた。手帳を、抱えていた。
「取られるのと、預けるのは、違う」
ニラは、エラの前で、膝をついた。粘土の地面に、そのまま。手帳を、開いた。
「これ、名前の帳面なの。四十一人、書いてある。みんな、あなたと同じ。名前を消された子。……その子たちの、本当の名前が、ここに、全部ある」
少女の目が、頁の上を、走った。
走って――止まった。
エラは、字が、読めなかった。
目の前に、四十一人の名前が、あって、それが名前だということも、分かって、それでも、一つも、読めなかった。
その顔を、俺は一生忘れないだろうと思った。
忘れるかも、しれないが。そう、思った。
読めない、と少女が言った。指は頁の上で止まっていて、触れようとして、触れなかった。汚してはいけないものだと思ったのかもしれない。粘土の地面に膝をついたニラは、それを見て、大丈夫、私が読める、と言った。私が覚えてる、書いてある、だから、あなたがいつか取りに来ていい、と。膝が赤く汚れていくのに、この女は気づいていなかった。
取りに、とエラが繰り返した。いつ、と聞いた。
「いつでも」ニラは言った。「明日でも、十年後でも。おばあちゃんになってからでも。……このお姉さんが死んでても、誰かがこの帳面を持ってる。名前は、逃げないから」
エラは、しばらく、頁を、見ていた。読めない字を。
「――えらんで、いいの?」
声が、小さかった。
「ああ」と、俺は言った。
「わたしが?」
「あんたがだ」
空だから、選べる。満ちた器は、もう選べない。
誰かが俺に注ぎ切ってしまう前に、俺がそう言ったことを、この子は、知らない。知らなくて、いい。
エラは、右足に体重を乗せられないまま、そこに、立っていた。
生まれてから十年、この子が自分で選んだものは、たぶん一つもなかった。
◇
長い時間が、あった。
リタが、いつのまにか、エラの隣に、立っていた。手は、繋がなかった。ただ、隣に、立っていた。
それから、エラが、言った。
「……エラ」
「え?」
「わたしの、なまえ。エラ」
ニラの手が、止まった。
「かいて」
◇
ペンが、走った。
四十一人の名前の、その後ろ。名前の分からない六人の、その後ろ。マナの、その、次に。
エラは、頁を、覗き込んでいた。自分の名前が、生まれて初めて、字になるのを。読めないまま、見ていた。
「――よんで」
「うん」
ニラは、読んだ。
「エラ」
少女は、その音を、聞いた。
「……それが、わたし?」
「そう」
エラは、頁を、見ていた。それから、言った。
「もういっかい」
ニラは、もう一度、読んだ。
「エラ」
「もういっかい」
読んだ。
何度も、読んだ。
裏庭の粘土に、午後の日が、差していた。物置の壁が、赤く、光っていた。街の方から、瓦を焼く窯の煙が、細く、上がっていた。
明日、教会の馬車が、この庭の向こうの門に、着く。
その馬車の席は、三つ。
今、その一つが、自分の名前を二十回目に読んでもらっていた。




