第99話「選ばせろ」
トゥーレが宿に来たのは、翌朝だった。
二十年、街に友人を作らなかった男が、市場の裏の安宿の階段を、上がってきた。それだけで、答えは出ていた。男は綴じ帳を抱えていて、卓に置き、開かずに、両手をその上に重ねた。
「――やる」
それだけ言った。コッツが小さく拳を握り、ミレアが息を吐いた。ヴァンネスは何も言わなかった。
「条件がある」と、トゥーレは言った。
「聞く」
「あの子らに、選ばせろ。……三人に、全部、話せ。教会の馬車がどこへ行くか。あんたらの言うた、〈星の間〉とかいう部屋に、何があるか。名簿から名前が消えたら、その後、どうなるか。……全部、話して、それから選ばせろ。わしが線を引くのは、それからじゃ」
部屋が、静かになった。
「……どういう意味だ」
部屋の全員が、この男を見た。
ミレアが立ち上がった。
「――十歳の子供に?」
ミレアの声が、部屋の板壁に、跳ね返った。
「十歳じゃ」
「あんた、正気? エラはまだ、自分が選ばれたって喜んでるのよ。生まれて初めて、街のみんなに褒められて。それを取り上げて、そのうえ『さあ、死んだことになるか、それとも本当に死ぬか、選べ』って言うの?」
「そうじゃ」
「――そんなの、大人の仕事でしょう!」
トゥーレは動かなかった。それから、綴じ帳の上の手を、少しだけ動かした。
「マナには、話さんかった」
ミレアが、口を噤んだ。
「あの子は、八つじゃった。話しても分からんと思うた。可哀想だと思うた。……だから、わしが全部決めて、金と手紙を持たせて、東へ歩かせた」
老人の指が、綴じ帳の縁を、一度撫でた。
「あの子はな。門の前で、三日、わしの名を呼んどった。なぜ入れてもらえんのか、分からんかったからじゃ。……分からんまま、死んだ」
トゥーレは、顔を上げた。
「わしが二十年、悔やんどるのは、線を引いたことじゃない。あの子に、何一つ、教えんかったことじゃ。……教えとれば、あの子は帰ってこんかった。門の前で待たんかった。別の道を探したかもしれん。生きたかもしれん」
灰色の目が、俺たちを、順に見た。
「可哀想じゃから話さん、というのは、優しさの顔をした、怠けじゃ。……わしは、二度はやらん」
◇
ヴァンネスが、低く唸った。
「――爺さん。あんたの言い分は分かる。じゃが、それは責任の押し付けにならんか」
「なるかもしれん」
「十歳が選んで、それが間違いじゃったとき、誰が背負う。その子自身が、一生背負うぞ。あのとき、わしが選んだから、とな。……大人がな、代わりに間違えてやるのも、仕事のうちじゃ」
トゥーレは、綴じ帳から手を離さなかった。ヴァンネスは、壁から背を離さなかった。二人とも、五十を過ぎている。二人とも、若い頃に一度、間違えている。
「あんたの言うことも、分かる」
「じゃが、譲らんと」
「譲らん」
二人の老人が、卓を挟んで、動かなかった。
どちらも、正しかった。
ガロが俺を見た。数えろ、という顔だった。理屈が通りすぎていないか、数えろと。
◇
俺は、窓の外を見ていた。
赤い瓦。水路の音。丘の下の、白い壁。
頭の中に、別のものが浮かんでいた。北の村の丘だ。
五年前。十一の俺に、じいさんが弓を渡した。手が小さくて、弦が引けなかった。三度やって、三度、指が滑った。じいさんは笑って、懐から鹿の腱の切れ端を出し、俺の指に巻いた。獣脂と塩の匂いがした。何日も懐で温めていた匂いだった。
つまり、あの人は、俺の指が届かないことを、渡す前から知っていた。
巻くとき、じいさんの掌が、俺の手の甲に触れた。硬い、古い、引き攣れた皮膚だった。火傷の痕だ。十一の俺はそれを不思議にも思わなかった。狩人の手なんてどこか焼けているものだと、勝手に思っていた。
あの日から五年。
俺は、狩人になった。星無しの器でも、狩人にはなれる。じいさんは、そう言った。そう書いた。何度も、何度も。
だが。
じいさんは、一度も、俺に聞かなかった。
狩人になりたいか、と。
器の話も、滴の話も、こぼれた水がどこへ行くかも、全部知っていて、一度も俺に教えなかった。
教えられていたら、十一の俺は、何を選んだだろう。分からない。たぶん、それでも弓を握った。じいさんが好きだったからだ。……だが、それは、俺が選んだことになる。
今の俺には、それがない。
俺が今持っているもののどれ一つとして、俺が選んだものじゃない。
全部、渡されたものだ。
「――ヴァンネス」
俺は、振り返った。
「爺さんの言い分は、通ってる。だが、俺はトゥーレを取る」
「理由は」
「俺が、選ばされなかったからだ」
老兵の目が、細くなった。
「じいさんは、俺に何も聞かなかった。十一の俺に、弓を渡した。たぶん、俺のためだと思ってた。今でも、そう思ってるかもしれない。……でも、俺は五年経って、自分の頭の中に何が入ってるのか、それを誰が入れたのか、分からなくなってる」
部屋が、静まっていた。
「大人が代わりに間違えてやるのは、優しさだ。……だが、その優しさを、何回も重ねると」
俺は、そこで一度、言葉を切った。
「――器になる」
誰も、反対しなかった。ミレアだけが、座り込んで、しばらく顔を上げなかった。
◇
一度、散会した。ガロが俺の部屋に来たのは、その昼過ぎだった。
酒を二つ持っていて、片方を卓に置いた。
「数えたぞ」
「……何を」
「お前が言ったろ。都合が良すぎるなら間違ってる、だからそこはあんたに数えてもらう、ってな」
大盾使いは椅子に座らず、壁に凭れて腕を組んだ。
「一個、引っかかった。……お前、さっき、爺さんの話をしたな。弓を渡された話」
「ああ」
「あれ、恨んでるのか」
俺は、答えなかった。
「恨んでていいんだぜ」とガロは言った。「俺は恨まれてる。ミレアにも、コッツにも。今でもだ。当たり前だ。……でもよ、坊主。恨みで決めたことは、たいてい、外れる」
「……」
「選ばせるのが正しいのか。それとも、お前が選ばされなかったのが、悔しいのか」
男は、酒を一口飲んだ。
「そこ、分けとけ」
俺は椀に手を伸ばして、伸ばして、止めた。
「――分けられない」
「そうか」
「じいさんに聞かれてたら、俺は、たぶん、それでも弓を握った。あの人が好きだったからだ。……なのに、聞かれなかったってことが、こんなに腹立たしい」
ガロは、頷いた。
「なら、いい」
「いいのか」
「分けられねえって分かってる奴は、まだ、まともだ」大盾使いは残りを一息で飲んだ。「危ねえのは、分けられたと思ってる奴だ。……俺が、そうだった」
それだけ言って、この男は出ていった。空になった椀が、二つ卓に残った。
俺は、その二つを、しばらく見ていた。
湯呑みを、二つ、並べる癖のことを思い出した。ニラが帰ったあと、俺の体が、勝手にやる、あれのことを。体は、覚えていて、心だけが抜けている。
恨みと、正しさも、たぶん同じ場所にある。
分けられない。分けられないまま、俺は決めている。
それでいい、とガロは言った。
いいわけがない、と俺は思った。だが、この男は、それを承知でいいと言ったのだ。
◇
「――誰が話す」
それが、次の問題だった。
俺は駄目だ。よそ者の、剣を差した男が、いきなり子供にそんな話をすれば、それは脅しになる。ミレアも駄目だった。彼女は泣く。泣きながら話せば、子供は「泣かせない答え」を選ぶ。
ニラは、迷った末に、首を振った。
「私が話したら、あの子は、私の言う通りにすると思う」彼女は言った。「……その顔をしてた。褒められたことがない子は、大人の顔色を読むのが、すごく上手いから」
トゥーレも駄目だった。エラにとって、あの男は「院の偉い人」だ。
部屋が、行き詰まった。
その時。
扉が、開いた。
リタが立っていた。隣の部屋で寝かせていたはずの少女が、いつから聞いていたのか、扉の隙間から、こちらを見ていた。
「――リタ」ミレアが立ち上がった。「起きてたの。だめ、あっちに――」
「わたし」
少女が、言った。
「わたし、いく」
部屋の全員が、動きを止めた。
「リタ」
「おはなし、するの。あのこに」
「駄目よ」ミレアの声が、掠れていた。「駄目。あんたは関係ない。あんたは、あんたはもう、じゅうぶん――」
「おねえちゃん」
リタが、姉を見上げた。
姉、と呼ばれたミレアの喉が、鳴った。意味を知らないまま、その音だけを、少女はもう三十日、繰り返している。
「あのこ、しらないんでしょ」
「……」
「なんにも、ならなくなるって、しらないんでしょ」
リタは、自分の胸を、掌で押さえた。あの、いつもの場所を。
「わたし、しってる」
◇
ミレアが、口を開いた。開いて、閉じた。
それから、両手で、妹の頭を抱えた。抱えて、髪に顔を埋めた。
声は、出さなかった。
誰も、何も、言わなかった。
トゥーレが、卓の上の綴じ帳を、そっと引き寄せた。
まだ、開かなかった。




