第98話「署名」
翌日、俺は動かなかった。
コッツが焦れた。ガロも焦れた。六日のうち、もう一日が減っている。だが、俺は動かなかった。
追い詰めた獣は、逃げるか噛むかしか選ばない。あの男は二十年、あの部屋から逃げていない。噛みもしない。ということは、あれは追い詰められた獣ではなかった。座って見る。それだけを、じいさんは五年、俺に叩き込んだ。
「――東の街道の外れ」と、俺はコッツに言った。「爺さんが月に一度行くって場所。案内しろ」
「なんもねえぞ」
「なんもない場所に、二十年通う人間はいない」
◇
それは、丘を下りきる手前の道端だった。
何もなかった。草が生えていた。轍があった。街道の脇に少し窪んだところがあって、雨が溜まった跡が乾いて割れていた。石はない。杭もない。花も供えられていない。
俺はしゃがんで、掌を地面に置いた。狩人の癖だ。何かを読もうとしたわけではない。二十年前の何かが土から読めるはずもない。
だが、しゃがんでみて分かったことが一つあった。
そこからは、養育院が見えた。丘の下の白い壁。赤い雨だれの筋。
街道を歩いて逃げた子供が、最初に振り返る距離だった。ここまで来て、振り返って、それでも帰れなかった距離だった。
◇
その日の夕方、俺たちはもう一度、離れの扉を叩いた。今度は、ニラが先に立った。
トゥーレは机に向かっていた。振り向かずに言った。
「帰れと言うたはずじゃ」
「一つ、置いていきたいものがあります」
ニラは卓の上に、三冊目の手帳を置いた。
「なんじゃ、それは」
「〈星の間〉の記録です」
男の背中が、止まった。
「四十七人の子供が、寝台に寝かされていました。番号で呼ばれていました。三十番。九番。十七番。……名前は、教会の名簿から消されていました。あなたと同じ、記録係の手で」
トゥーレは動かない。
「その子たちが何をしていたか、知ってますか。……寝台の裏板に、爪で、自分の名前を刻んでいました」
ペンが机に置かれる音がした。
「『ミナ』。『ぼくは、トト』。……こう書いた子もいました」
ニラは、頁を開かずに暗唱した。
「『わたしのなまえは、サラです。わすれません』」
部屋の中の紙の匂いが、急に重くなった気がした。
「誰にも教えられていません。字を教わったのが、せいぜい二年です。それでも、あの子たちは知ってた。……名前を取られるということが、どういうことかを」
ニラは手帳を、机の端にそっと押した。
「四十一人分、写しました。六人は書けなかったみたいです。その頁は、空けてあります」
男は振り返らなかった。
「――あなたに読んでほしいとは言いません。読まなくていいです。ただ、そこに置いていきます。……あなたの部屋は、紙を置く場所ですから」
◇
長い、長い沈黙があった。蝋燭が、半分まで減った。
それから、トゥーレが椅子を回した。手を伸ばして、手帳を取った。開いた。
一頁。
二頁。
三頁目で、指が、止まった。
それきり、動かなくなった。
灰色の顔が、蝋燭の下で、どんどん、白くなっていくのが分かった。
男は、手帳を閉じた。閉じて、机に置いて、両手をその上に重ねた。
重ねた手が、震えていた。
「……あんたら」
声が、掠れていた。
「あんたら、わしを、殺しに来たな」
「――違います」
「殺しじゃ」トゥーレは笑った。ひどい笑い方だった。「二十年かけて、やっと、忘れたつもりになっとったのに」
男は、机の上のあの古い一冊に、手を置いた。革が擦り切れた、壁に並べていない、一冊に。
「……これはな」
◇
二十年前。トゥーレは二十五で、養育院の記録係になったばかりだった。字が書けて酒を飲まない、というだけの理由だった。
最初の巡回検査の日、一人の子が適合と判じられた。女の子だった。八つ。
「マナ、という名じゃった」
男はまだ若かった。若くて、正義感があった。教会の馬車に乗せられた子がその後どうなるのか――そんなことを考える人間は、この街に一人もいなかった。ただ、あの日、馬車を見送った院長の顔がおかしかった。
だから、調べた。三年かけて。
「三年目に、分かった。分かったところで、次の巡回が来た。その年、マナが選ばれた」
「……」
「わしは、線を引いた」
男の指が、開いた頁を撫でた。名前が一つ。その上に、線が一本。
「わしは、賢いつもりじゃった。誰も攫わん。誰も傷つけん。線を一本引くだけで、子供が一人助かる。……こんなに簡単なことに、なぜ誰も気づかんのかと思うた」
蝋燭が、爆ぜた。
「馬車は、空で帰った。教会は疑わんかった。院長も何も言わんかった。冬に子供が死ぬのは、珍しくないからな」
「……それで」
「マナは、東の街道を歩いていった」
男は、机を見ていた。
「わしは金を持たせた。手紙を持たせた。隣街の職人に宛てた、預かってくれという手紙じゃ。……返事は来なかった。名簿にない子供を預かる職人など、おらん。この街の外に、書かれとらん人間の居場所は、ない」
「――帰ってこなかったのか」
「帰ってきた」
部屋が、静まった。
「十二日目の朝。門の前に、立っとった」
トゥーレの声が、平らになった。感情が消えたのではない。平らにしなければ続けられないのだ、と分かった。
「わしは、入れられんかった」
「……」
「入れたら、線を引いたのが嘘じゃとばれる。死んだことになっとる子が、生きて門から入ってきたら、誰の仕業かすぐに分かる。わしは捕まる。捕まったら、他の四十人がどうなるか分からん」
男は、両手で顔を覆った。
「わしは、門の内から、あの子を見とった」
「……」
「あの子は、なぜ入れてもらえんのか、分からんかった。ずっと、わしの名を呼んどった。トゥーレさん、トゥーレさん、と。……三日、そこにおった。四日目に、街道の方へ歩いていった」
顔から、手が下りた。
「見つかったのは、五日後じゃ。丘の途中の道端じゃった」
俺は、あの窪み、思い出した。
草。轍。雨の溜まった跡が、乾いて、割れていた。石も、杭も、花も、無い場所。
あそこにしゃがんだとき、俺は、養育院の白い壁が見えることに、気づいた。
気づいて、狩人の頭で、距離を測った。逃げた獲物が、最初に振り返る距離だ、と。
違った。
あそこは、振り返る場所じゃない。
あそこは、八つの子が、十二日、歩いて門に戻って、三日待って、また歩き出して――そこまでやって、それでも、あの白い壁が、まだ、見えてしまう場所だ。
見えるのに、入れない。
それが、この街の外の、全部だった。
そして、この男は。
月に一度、二十年。
その、見える場所に、立ちに行っている。
何をするでもなく。四半刻。
あの子が最後に見たものを、同じ角度から、見るために。
◇
「――だから、帰れと言うた」
トゥーレは、古い綴じ帳を閉じた。
「あんたらの案は、二十年前の、わしの案じゃ。一言一句、同じじゃ。線を引く。誰も攫わん。誰も傷つけん。……その通りにやって、わしは、八つの子を、一人で街道で死なせた」
男は、俺を見た。
「あんたは、まだ若い。若いから、思いつく。……思いつくのは、簡単なんじゃ」
俺は、しばらく、その灰色の目を見ていた。
この男は、俺を脅していない。責めてもいない。ただ、二十年前の自分の顔を、俺の中に見て、そこから目を逸らせずにいるだけだった。
若いから、思いつく。
その通りだった。俺は昨夜、あの部屋で自分の思いつきに、酔っていた。ガロに数えろと言った。都合が良すぎるなら間違ってると、自分で言った。言って、それで数え終えた気になっていた。
数えていなかったのは、その先だ。
助けた後の、冬のことを。名簿に載らない子供が、二度目の冬を、どうやって越すのかを。
俺は、三人を、馬車から降ろすことだけを、考えていた。
降ろした先の地面が、あるかどうかを、考えていなかった。
二十年前の、二十五の男と、同じだった。
――だが。
一つだけ、違うことがある。
俺は、口を開いた。
「――あんたが失敗した理由は、線を引いたことじゃない」
「なんじゃと」
「線しか、引けなかったことだ」
男の眉が、動いた。
「あんたは、消すことしか出来なかった。だから、あの子はどこにも書かれてない人間になった。……俺たちは、違う」
俺は、卓の上のニラの手帳を指した。
「消した行を、書き足せる。別の帳面に」
「……別の、帳面」
「四十七人は大陸中に散った。運び屋が運んだ。名前を変えて、新しい街の、新しい名簿に載ってる。名簿に載ってるから、飯が食える。奉公にも出られる。……あんたが二十年前に持たなかったのは、正義じゃない。次の名簿だ」
トゥーレは、動かなかった。
「元の名前は、ここにあります」と、ニラが言った。「四十一人分。……この子たちが、いつか取り戻したくなったら、私が返します」
「……返す」
「はい」
「返して、どうなる」
「分かりません」ニラは、はっきり言った。「たぶん、何にもならない子もいます。返された名前を、もう自分のものだと思えない子もいます。……でも、返せる場所がなかったら、その子は、選ぶことすら出来ません」
男の指が、机の上で、開いて閉じた。
◇
それから、トゥーレは立ち上がった。
壁の棚には行かなかった。机の上の古い一冊を取った。開いた。線の引かれた、あの頁を。彼はそれを、ニラの前に置いた。
「……娘さん。一つだけ、頼みがある」
声が、震えていた。二十年、震えないように書いてきた男の、声だった。
「わしの帳面の、この子は、死んだことになっとる。じゃが、この街のどこにも、この子の墓はない。名前がなくなった子を、埋める場所はないからな。……この線の下の名は、二十年、誰にも、呼ばれとらん」
彼は、頁の上に指を置いた。
「あんたの帳面に――この子の名を、書けるか」
ニラは、動かなかった。
それから、手帳を開いた。四十一の名前の、その後ろ。名前の分からない六人の、その、また後ろ。まだ何も書かれていない頁を。
ペンを取った。
蝋燭が、細く燃えていた。
『マナ。八歳。二十年前、聖アルデ養育院。適合と判じられ、記録の上で死んだ。東の街道で、本当に死んだ。線を引いたのは、トゥーレ。忘れません』




