第97話「灰色の指」
夜明け前に目が覚めた。狩人の癖だ。旅に出てから一度も直っていない。窓の外はまだ藍色で、水路の音だけがしていた。
廊下に出ると、階段の下に灯りがあった。ニラが、食堂の卓に一人で座っていた。蝋燭が一本。手帳が三冊。全部、開いていた。一冊目、俺の記憶。二冊目、村の記録。三冊目、〈星の間〉と四十七の名前。
彼女は、三冊目を見ていた。
「……眠れないのか」
「うん。……三日、寝てない。嘘、二日。一日目は、寝た。二日目から、目を閉じると、あの子が手を叩いてるところが出てくるの。えらばれた、って。……あれ、なんで嬉しそうなんだろうって、ずっと考えてた」
俺は向かいに座った。ニラはページから目を離さなかった。開いていたのはあの頁だった。爪の傷から写した四十一の名前と、その先の六人分の空白。
『名前、不明。三十番。九番。十七番。二十二番。三十八番。四十四番。……いつか思い出したら、教えてください』
「リゲル。昨日の、あなたの案なんだけど」
「ああ」
「昨日、あなたが、行が消えてればいいって言ったとき。私、立ち上がったでしょう。……あれ、思いついたのが嬉しかったからじゃないの。気づいたからなの。あの三人を、記録の上で死なせるってことは」
ニラは、そこで初めて顔を上げた。
「――名前を、消すってことだよね」
蝋燭の芯が、爆ぜた。
「エラも、ヨナも、リノも。院の名簿から行ごと消える。生きてるのに、いなかったことになる。名前を返してもらえない。一生。……あの子たちが助かるのは、あの子たちが誰でもなくなるからでしょう」
「……ああ」
「私、昨日、その場で気づいてた」ニラは言った。「気づいてて、言わなかった。言ったら、あの案が潰れるから」
三冊目の手帳の上に、彼女の指が置かれていた。
「名前は命の入れ物ですって、私、運び屋に言ったの。偉そうに。……その私が、今度は、自分の手で、入れ物を割るんだ」
彼女は笑わなかった。泣きもしなかった。ただ、ずっとその頁を見ていた。
「……ニラ。あんたの手帳に、書けるか」
「え」
「院の名簿から消した名前を。あんたの三冊目に、移す」
ニラが、俺を見た。
「消すんじゃない。移すんだ」と、俺は言った。「教会の届かない場所に。四十一人と、同じ頁に」
長いあいだ、彼女は動かなかった。それから手帳を閉じ、両手でそれを胸に抱えた。抱え方が、いつもより強かった。
「……四十四人になる」
「ああ」
「重いなあ」と、ニラは言った。
声が、少しだけ震えていた。
◇
記録係の名は、トゥーレといった。
コッツが半日で調べてきた。妻はなく、子もなく、養育院の裏の崩れかけた離れに二十年住んでいる。街には友人がいない。酒場にも顔を出さない。買い物は週に一度、市場の同じ店で同じものを買う。
「面白えのが一個ある」と、コッツは言った。「あの爺、月に一度、東の街道の外れまで歩いてく」
「墓か」
「そう思うだろ? 違う。何もねえんだ。丘の途中の、道端。石も立ってねえ。……そこに立って、四半刻、何もしねえで帰ってくる」
◇
訪ねたのは、その日の夕方だった。
俺とニラの二人だけ。ガロを連れていけば脅しになるし、コッツを連れていけば盗人だと思われる。ヴァンネスは、行かん、と言った。わしの顔はあの手の男に効かん、と。
離れの扉は開いていた。中は、紙の匂いがした。壁一面が綴じ帳だった。床から天井まで、隙間なく。二十年分の紙がこの小さな部屋を内側から支えているように見えた。
男は、机に向かっていた。振り向きもせずに言った。
「昨日、広場におったな」
俺は足を止めた。
「二人とも。あんたは右の隅。あんたは、その半歩後ろ」トゥーレはペンを置いた。「あんた、数えとったろう。四十二人を」
ニラの息が、小さく止まった。
「――なぜ、分かるんです」
「顔を見とるからじゃ」
男が椅子を回した。痩せた、灰色の顔だった。目だけが妙に落ち着いていた。
「わしの仕事は名前を書くことじゃ。名前は誰でも書ける。名簿を見ればええ。……じゃが、それでは、書いた名前と子供が繋がらん。だから顔を見る。二十年、そうしてきた」
彼は、俺たちを順に見た。
「顔を見る癖がつくと、子供以外の顔も勝手に覚えてしまう」
◇
座れ、とは言われなかった。俺は立ったまま話した。
隠さなかった。〈星の間〉のこと。四十七の寝台のこと。三段の篩のこと。耐えなかった器が空の寝台になって運び出されること。適合と判じられた子がリディアで何を注がれるか。
トゥーレは遮らなかった。一度も驚かなかった。それが、一番、恐ろしかった。
話し終えたとき、部屋は暗くなっていた。男は立って、蝋燭に火を入れた。
「――で。わしに、何をせいと」
「エラと、ヨナと、リノを、あんたの綴じ帳から消してほしい」
「死んだことにせい、と」
「そうだ」
「六日後に教会の馬車が来る。三人分の席を用意して」
「ああ」
男は、確かめていた。俺の案を、一つずつ、指で数えるように。急いでいなかった。二十年、紙に向かってきた人間の、確かめ方だった。
「そこに、誰もおらん」
「そうだ」
トゥーレは、蝋燭の火を見ていた。
「……ようできた話じゃ」
それから、彼は俺を見た。
「一つだけ、聞かせてくれ。――その三人を、どこへ連れていく」
俺は口を開いた。開いて、閉じた。
男は待たなかった。
「東の山へ逃がすか。誰が育てる。あんたらか。あんたらは旅の途中じゃろう。荷馬車に子供を三人積んで、大陸を回るのか。……よそへ預けるか。誰に。どこの誰が、名前のない子供を引き取る。奉公にも出せん。徒弟にも入れん。この街の外に、名簿に載っとらん子供の居場所はない。一つもない」
蝋燭が、揺れた。
「わしの帳面から名前を消すのは簡単じゃ。線を一本引けばええ。……そのあと、あの子らはどこにも書かれとらん人間になる。どこにも書かれとらん人間は、どこにも住めん。飯屋の裏で残飯を漁って、冬に凍える。運が良ければ、盗人の使い走りに拾われる」
男の指が、机の縁を一度だけ叩いた。
「そういうのを、わしは、助かったとは呼ばん」
俺は答えられなかった。ニラも動かなかった。
「――帰れ」
トゥーレは椅子を回して、机に向き直った。
「あんたらは正しいことを言うとる。教会は悪い。子供は可哀想じゃ。それは全部、その通りじゃ。……じゃが、その正しさで、あの子らが冬を越せるか」
ペンを取った。それきり、こちらを見なかった。
「わしは、書く男じゃ。書いたことに、責任を持たにゃならん」
◇
出しなに、俺は一度だけ振り返った。
机の脇に、他の綴じ帳とは違う一冊があった。古い。革が擦り切れている。壁の棚には並べず、机の上に置いてある。二十年、手の届く場所に置き続けた一冊だった。
開いたままの頁が、蝋燭に照らされていた。
名前が、一つ。
その上に、線が一本。
引かれていた。
男の背中がぴくりとも動かなかったので、俺は何も言わずに扉を閉めた。




