第96話「二つの手」
宿の二階の、一番奥の部屋。七人が入るとそれだけで狭かった。ガロが立てば頭が梁に当たる。リタは隣の部屋で眠らせ、眠らせてからミレアが戻ってきて、扉を閉めた。
閉め方で分かった。この女はもう決めていた。
「――出立は六日後」と、俺は言った。「まず、分かってることを並べる」
卓の上に、コッツが炭で線を引いた。養育院の見取り図だ。半日で描き上げていた。この小僧の目は、こういうときに一番速い。
「門は一つ。夜は閂。壁は低い、俺なら跨げる。子供の寝所は北棟の二階、十二人ずつの三部屋。……盗るだけなら、三人くらい造作もねえ」
「じゃあ、盗りましょう」
ミレアだった。
「今夜でいい。閂を外して、三人連れて、東へ走る。追手が来る前に山へ入れば――」
「駄目だ」
ヴァンネスの声は、静かだった。静かすぎた。
「……なんですって」
老兵は動かなかった。この男が動かないときは、たいてい、動けないほど確信している。
「盗れば、盗んだと記録される」老兵は壁に背を預けたまま、動かなかった。「明日の朝、養育院の子が三人消える。街は大騒ぎだ。誰がやった。分からん。だが教会は分かっとる、と言う。星喰らいの一味だ、とな。……娘さん。それを聞いた次の街の連中は、どうする」
「……」
「差し出すぞ。もっと早く、もっと喜んで。子供を攫う化け物から守ってくれるのは、教会だけだからな」
ミレアの掌が、卓を叩いた。
「じゃあ見殺しにしろって言うの!」
「そうは言っとらん」
「言ってるでしょう!」
「――ミレア」
俺が呼んでも、彼女は止まらなかった。
「あたしは、間に合わなかった。九日走って間に合わなかった。……リタは、あそこにいたのよ。寝台の上に。あたしが着いたとき、もう注がれた後だった。一日よ。一日、早ければ」
誰も何も言わなかった。
「……今度は、間に合うの」彼女の声が掠れた。「今度は、まだ注がれてない。手が届くのよ。今、この街で、歩いて四半刻のところに、三人、生きてる。……それを、次の街の連中がどう思うかのために、置いていくの?」
「千人だ」と、ヴァンネスが言った。
「え」
「大陸中の巡回で、年に何百人が篩にかけられとる。十年で千人だ。……娘さん、あんたの言う三人は、その千分の三だ。記録を積んで、教会の白い名簿の裏に何があるかを世に出せれば、千人が助かる。……わしは、そっちを取る」
「じゃあ、その千人の名前を言ってみなさいよ」
部屋が、静まった。
「言えないでしょう」ミレアは言った。「あたしは、言える。エラ。ヨナ。リノ。三人とも顔を知ってる。足を引きずってるのがエラ。……名前のある三人と、名前のない千人。あんた、どっちが記録者に近いの?」
ヴァンネスが、初めて黙った。老兵の顎が、わずかに動いた。
「――ニラ」ミレアが、彼女を見た。「あんたは、どっち」
ニラは、手帳を膝の上に置いていた。その手が、動かなかった。
「……私は」
唇が、乾いていた。
「私は、記録者だから。……記録の側に立つ」
言った。言った直後に、彼女は口を押さえた。顔が白くなり、喉が動いていた。吐きそうなのだ、と俺は思った。この女は、正しいことを言って、吐きそうになっていた。
「……ごめん」と、ニラは言った。誰に謝ったのか分からなかった。「ごめんなさい。でも、私が言わなきゃいけないから。誰かが、それを言わなきゃ、いけないから」
ミレアが、椅子に座り込んだ。座って、両手で顔を覆った。
◇
俺は、二人を見ていた。
隊長代行というのは、こういうときに口を開く役目だ。だが、開く言葉がなかった。
ヴァンネスの理屈は、俺が丘の上で言ったことだった。大陸を巡って記録を積む。教会の白い記録と、俺たちの汚れた記録を並べて、世界に、どちらが汚れているかを決めさせる。あれは俺の言葉で、老兵はそれを、正確に反復しているにすぎない。
ミレアの手は、俺が〈星の間〉でやったことだった。四十七の寝台の裏板を、逃げる時間を削って、覗き込んだ。名前を集めた。あれも俺だ。
二年で、俺は、両方になった。
どちらかが正しくて、どちらかが間違っているのなら、楽だった。自分の中の、片方を切り捨てればいい。
だが、両方俺だった。
器の中で、二つが、擦れていた。
――これが、満ちるということなのか。
空の器は、何でも注げる器じゃない。何を注ぐかを選べる器だ。俺は、あの商人にそう言った。言い切った。
だが、注いだものは、器の中で混ざらない。
二年かけて注いだものが、二つとも底に沈んで、今、互い、削っている。
選べるのは、注ぐときだけだ。
注いだ後は、選べない。
◇
長い沈黙を破ったのは、ガロだった。
この男はそれまで一言も喋っていなかった。ずっと腰の後ろの鍋を撫でていた。メイセンの鉄鍋。旅にも持ち歩いている、あの鍋を。
「なあ、坊主。爺さんの言うことは、通ってるか」
「通ってる」
「ミレアの言うことは、通ってるか」
大盾使いの声は、ゆっくりだった。この男は、頭が悪いと自分で言う。だが、遅いのと悪いのは、違う。ガロは、答えを知っていて聞いている顔をしていた。
「通ってる」
「両方、通ってんだよな」ガロは頭を掻いた。「俺は頭が悪いから、こういうのは苦手だ。……でもよ、一つだけ分かることがある。理屈が通りすぎるときは、どっかで間違えてる」
俺は、この男の顔を見た。
「爺さんの話、聞いてて思ったんだ。よく出来てる。数まで合ってる。反論できねえ。……でもな、坊主。俺は昔、よく出来た理屈で、隊を売った男だ」
部屋の空気が変わった。
「あんときも、通ってたんだよ。全部。娘の薬代がいる。四人は死なせない、傷を負わせるだけだ。俺が抜ければ隊は解散しないで済む。……一つずつは、全部、正しかった。並べたら、隊が四人死んだ」
ガロは、鍋から手を離した。
「だから俺は、理屈を数えるのをやめた」
「じゃあ、何で決める」
「――自分が、自分でいられる方だ」
大盾使いは、俺を見た。
「坊主。あの三人を置いて街を出て、そのあと五年、大陸を回って、記録を積んで、いつか教会をひっくり返したとする。……その時のお前は、リゲルか?」
俺は、答えられなかった。
「聞いてんのは、正しいかじゃねえ。お前かどうかだ」
◇
誰も口を開かなかった。
俺は窓に寄って、外を見た。赤い瓦の屋根が月に鈍く光り、水路の音がしていた。四半刻先に、エラがいる。今夜あの子はたぶん、生まれて初めての「めでたい」を抱いて眠っている。
じいさんの声が、頭の中にあった。
――追い詰めるな。追い詰めた獣は、二つに一つしか選ばん。逃げるか、噛むか。どっちも、こっちが決めた道じゃ。……いいか、リゲル。狩人が本当にやるのは、選ばせることじゃない。獣が知らん三つ目の道に、先回りして、罠を置いておくことじゃ。
二つに、一つ。
攫うか、見殺しか。
誰が、その二つに絞った。
――教会だ。
教会があの広場に卓を出し、水晶を三枚立てて、街の連中を並ばせた。その卓の前で、俺たちは二択を握らされている。剣で盗るか、指を咥えるか。どちらを選んでも、教会の帳面には教会の欲しい字が並ぶ。
罠に嵌まっているのは、俺の方だった。
三つ目の道は、どこだ。星視盤は俺を鳴らす。だから近づけない。子供は攫えない。攫えば記録が残る。記録が――
記録が。
残る。
俺は、振り返った。
「――ニラ。教会の馬車は、六日後に、何人、迎えに来る」
「三人」彼女は即答した。「灰色の男の帳面に、そう書いてある。適合、三名」
「その三人が誰かは、どこに書いてある」
ニラの目が、動いた。動いて、止まった。
「……院の、名簿」
「灰色の男の帳面には、番号と数字しかなかった。名前は書いてなかった。書いてたのは――」
「――記録係の、綴じ帳」
ニラが、立ち上がった。手帳が膝から落ちた。彼女はそれに気づかなかった。
「馬車は、名前を迎えに来るんじゃない。名簿の行を、迎えに来るの。……三人の子供がどんな顔か、教会は知らない。灰色の男が見てたのは、目盛りだから」
「そうだ」
「じゃあ」
「――行が、消えてればいい」
部屋の全員が、こちらを見ていた。
「攫わない」と、俺は言った。「一人も盗まない。夜に忍び込まない。星喰らいは、この街に来ない」
俺は卓の見取り図に指を置いた。北棟でも門でもない。その脇の、小さな四角。記録室。
「あの三人は、記録の上で死ぬ」
ヴァンネスが、ゆっくりと壁から背を離した。
「……坊主」
「孤児院で子供が死ぬのは、珍しくない。冬に一人、夏に二人。教会は疑わない。疑いたくないからだ。数が減っても、教会は次の街へ行く。誰も攫われてない。誰も戦ってない。街は今日と同じで、明日もいい街のままだ」
「そんな真似ができるのは、一人だけだぞ」
「ああ」
俺は、窓の外の丘の下を見た。白い壁に赤い雨だれの筋が入った、あの建物を。
「あの綴じ帳を持ってる男を、こっちに寝返らせる」
コッツが、口笛を吹きかけて、やめた。ミレアが、顔を覆っていた手を下ろした。
「……両方、やるの?」
「両方やる」と、俺は言った。「三人も助ける。記録も積む。ヴァンネスの理屈も、あんたの手も、どっちも捨てない」
「そんな都合のいい――」
「都合が良すぎるなら、間違ってる」俺はガロを見た。「だから、そこは、あんたに数えてもらう」
大盾使いが、鼻を鳴らした。
それから、初めて笑った。
「――上等だ」




