第95話「巡回検査」
聖アルデ養育院は、街の東の外れ、赤い粘土の丘の一番低いところにあった。壁は白く塗り直されていたが、下地の赤が雨だれの筋になって、滲み出している。門は開いていた。
検査は、隠されていなかった。それどころか、街の行事だった。
前日から広場に幕が張られ、瓦屋の女房たちが、揚げ菓子の屋台を出した。子供に一番いい服を着せた親戚が、朝のうちから列を作っている。孤児の検査だというのに親戚がいた。孤児院に子を置いたまま時々顔を見に来る貧しい親が、この街にはいくらでもいる、ということだった。
俺たちは見物人に混じった。ヴァンネスとガロは広場の反対側、コッツは屋根の上。ミレアはリタを連れて宿に残した。連れて来るわけにはいかなかった。
ニラだけが、俺の隣にいた。手帳は開いていない。開けば、書いている女がいる、と誰かの記憶に残る。彼女は腕を組んで、指先で腕の内側を叩いていた。頭の中に書いているのだ。ギルドの窓口で三人同時に喋りかけられても、取りこぼさなかった女の癖だった。
「……四十二人」と、ニラが呟いた。
「え」
「今、門から出てきた子。四十二人。院長が言ってた四十人より、二人多い」
俺は数えていなかった。この女は数えていた。
◇
巡察の一行が着いたのは、鐘が二つ鳴った頃だった。白い馬車が一台、聖騎士が二人、それに灰色の外套の男が一人。
聖騎士は儀仗だった。街の連中に見せるための白と金だ。実際に働くのは灰色の方で、その男は馬車から降りると誰にも挨拶をせず、まっすぐ広場の中央の卓へ歩いた。
卓の上に、布に包まれた箱が置かれ、布が取られた。
星視盤だった。
だが、俺の知っている星視盤ではなかった。ヴェルデのギルドにあったやつは、拳ほどの水晶を木の台に据えただけの素っ気ない道具で、手を触れさせて色を見る、それだけだ。卓の上のそれは掌ほどの薄い水晶が三枚、扇のように立っていた。三枚とも角度が違う。台は銀で、目盛りが刻まれ、水晶の下には細い管が渦を巻いて通っていた。
教会の新型。〈星の間〉で、ヴェイユが言っていた。精度が上がった、と。それがどういう意味かを、俺はこの日まで知らなかった。
「――三枚ある」と、ニラが小さく言った。「ヴェルデのは、一枚だった。窓口に置いてあったやつ。……一枚じゃ足りなかったってことでしょう。二年で、二枚増えてる。何を測るのに、三枚もいるの」
俺は答えなかった。答えは、たぶん俺だった。
◇
検査が始まった。
子供が一人ずつ卓の前に立たされ、灰色の男がその手を取って、水晶に触れさせる。それだけだ。一人につき、十を数えるほどの時間もかからない。
水晶はたいてい淡く光った。青、緑、まれに黄。街の連中はその色が出るたびに、おお、と声を上げた。何を見ているのかも分からずに、ただ光ったから声を上げていた。
灰色の男は色を見なかった。見ていたのは目盛りだった。三枚の水晶がそれぞれ何度まで振れたか。その三つの数字を男は帳面に書き込んでいき、書くたびに隣に立った院長が首を伸ばして覗き込み、そのたびに男は帳面を少し傾けて隠した。
「――記録係は、あっち」と、ニラが言った。
卓の脇に、もう一人いた。痩せた男だ。四十半ばか、もっと上か。灰色ではなく色の褪せた茶の上着で、左手に厚い綴じ帳を抱え、右手にペンを持って、子供の名前を書きつけている。教会の人間ではない。院の人間だ。
その男の書き方が、妙だった。灰色の男が数字を言い、院の男が書く。だがその男は、書く前に必ず子供の顔を一度見上げていた。名前を確かめるためではない。名前は名簿にある。顔を見ていた。一人ずつ。
◇
十九人目の子供が、卓の前に立った。
女の子だった。十くらい。右の足を引きずっている。膝から下が細くて、歩くたびに体が傾いた。生まれつきか、病の後か。その子が卓に着くまで少し時間がかかったが、誰も急かさなかった。街の連中も静かに待った。この街の人間はたぶん悪人ではないのだ。悪人でない人間が、悪いことを手伝うときの静かさが、そこにあった。
灰色の男が、その手を取った。
掌が、水晶に触れた。
その瞬間。
水晶が。
光った。
いや――違う。
光らなかった。
三枚とも、色を出さなかった。
街の連中が、あれ、という顔をした。今までは光ったのに。
灰色の男の背中が、初めて、動いた。男は目盛りを覗き込み、それから水晶をもう一度、指で弾いた。三枚の板が、細かく震えた。
目盛りは、動いていた。
色は出ないのに、目盛りだけが、振り切れていた。
男が、顔を上げた。
「――適合」
声は、大きくなかった。だが、広場の全員に届いた。
わっと、歓声が、上がった。揚げ菓子の屋台の女房が手を叩き、誰かが口笛を吹いた。院長が女の子の肩を抱いて、何度も頷いた。よかったなあ、と誰かが言った。ほんとによかったなあ。
女の子は、何が起きたのか、分かっていない顔をしていた。
それから、周りの顔を、見回して。
少しずつ、笑った。
足を引きずるその子が、生まれて初めて、みんなから褒められた顔だった。
「……えらばれた」と、その子は言った。
誰かの真似だった。言葉の意味を、この子はたぶん知らない。ただ、みんなが喜んでいるから喜ぶべきことなのだと理解して、その音を口に出した。
「わたし、えらばれた!」
隣で、ニラの腕が硬くなった。見なくても分かった。指が、腕の肉に食い込んでいた。
俺は、彼女の腕を掴んだ。
掴んで、離さなかった。
二人とも、そのまま動かなかった。
◇
その日、適合と判じられたのは三人だった。足を引きずるエラ。八つのヨナ。十二のリノ。名前は、ニラが頭の中に書いた。
出立は六日後。教会の馬車が迎えに来るから、それまでに支度をしろ、と灰色の男は言った。支度をしろと言われて、この子たちが用意できるものは何もなかった。
一行が帰り支度を始めた頃、俺は広場の隅を離れようとした。
その時だった。
卓の上の水晶が、ちらり、と震えた。
誰も触れていなかった。
灰色の男が振り向いた。目盛りを見た。それから顔を上げて、広場を見渡した。
俺は動かなかった。動けば見つかる。獣に見つかるのは、逃げる者だ。
男の視線が俺のいる辺りを通り過ぎ、通り過ぎて、また戻ってきた。二度目に戻ってきたとき、俺とその灰色の目が、合った。
一拍。
男は、目を逸らした。逸らして、水晶を布で包み、箱に納めた。何も言わなかった。誰も呼ばなかった。
白い馬車は、そのまま門を出ていった。
◇
宿に戻る道で、ニラがずっと黙っていた。
街の灯が水路に映って、赤い粘土の壁を橙に染めていた。子供の笑い声がどこかの家から漏れている。いい街だった。今日三人の子供を売った街は、どこまでもいい街だった。
「リゲル。あの水晶、最後に震えたよね。誰も触ってないのに。……あの人、目盛りを見て、それから広場を見渡した。子供を探す顔じゃなかった。あれは、探し物が見つからなかった顔」
「震えた」
「三十歩、離れてた。私、数えてたから。……あなたの立ってた場所から、卓まで三十二歩」
「ああ」
ニラが立ち止まった。
「――あなた、あの子たちの近くに、行けない」
俺は答えなかった。答えはもう出ていた。
空の器は、遠くからでもあの三枚の板を鳴らす。教会が精度を上げたのは、子供を選り分けるためだけではなかった。逃げた器を探すためでもあった。大陸中の広場に、俺を鳴らす鈴が置かれている。
「……宿に戻ろう」と、俺は言った。
その夜、俺は寝台の上で自分の掌を長いこと見ていた。
この手は、三十歩先の水晶を鳴らす。
だがその手は、三十歩先の子供に届かない。




