第94話「同じ器」
リディアを出て、十七日が過ぎた。
街道は東へ下るにつれて、土の色を変えていった。白い石灰の道が、やがて赤みを帯びた粘土になり、轍が深くなる。雨の多い土地に入ったのだ。車輪が嵌まるたびに、ガロが荷台から降りて尻を持ち上げ、そのたびにヴァンネスが、御者台から腰の入れ方に注文をつけた。大盾使いの背中はこういうときに一番役に立つし、老兵の口はこういうときに一番役に立たない。
追手は来なかった。教会は〈星の間〉の異変を、いまだに公表していない。四十七人が消えたと言えば、四十七人がいたと認めることになるからだ。沈黙は続いていて、その沈黙の分だけ俺たちは自由だった。
次の目的地は、まだ決めていない。東へ向かっているという以外に、俺たちには何の予定もなかった。大陸を巡って教会の所業を記録する――丘の上でそう言ったときには、それが立派な計画に聞こえた。だが実際に街道へ出てみると、大陸は広く、街は多く、俺たちは七人だった。
どこから手を付ける。毎朝それを考えて、毎朝答えの出ないまま馬に鞍を置いた。狩りなら獣の通り道を読めばいい。糞の乾き具合、折れた枝の高さ、風の向き。だが教会という獣の通り道は、足の裏では読めなかった。
◇
リタは、この十七日でよく喋るようになった。
喋る中身はだいたい質問だ。あれは何、これは何、あの鳥はなぜ低く飛ぶ。世界のすべてに名札が付いていないような聞き方をする。姉の名前を忘れた子供は、姉以外のこともたくさん忘れていて、その空白を片端から、埋めようとしているように見えた。ミレアは、聞かれたことには全部答えると決めているらしい。三百の薬草の効能を諳んじる女が、鳥の飛び方について真剣に考え込む姿は、見ていて悪いものではなかった。
その日、少女は荷台の縁に腰かけて、細い足を垂らしていた。俺の隣だった。
「おにいちゃんも、わすれたの?」
荷台の反対側で、ミレアの手が止まったのが分かった。
「……ああ」と、俺は答えた。
「なにを?」
荷馬車が、轍を一つ拾って、跳ねた。答えるまでの間を、その揺れが埋めてくれた。
「いろいろだ。母さんの顔とか。父さんとか」
「かおを?」少女は目を丸くした。「かおって、わすれられるの? なまえは、おぼえてるのに?」
「らしい。……名前は、字みたいなものなんだと思う。顔は、そうじゃない」
リタはしばらく考えていた。考えているあいだ、荷台の縁を、指で二回叩いた。ミレアが同じことをするのを、俺は知っている。姉の癖が、意味を忘れた妹の指に、残っている。
それから、少女は自分の胸のあたりを掌で押さえた。
「あのね」
「ああ」
「おねえちゃん、って、ゆうと」
少女の指が、着物の胸元を軽く握った。
「ここが、なんにも、ならないの」
車輪が粘土を噛む音が続いていた。ガロが馬に何か言い、ヴァンネスが下手な相槌を打った。誰もこちらを見なかった。見ないでいてくれた。
「……分かる」と、俺は言った。
「わかるの?」
「ああ」
「おにいちゃんも、なんにも、ならないの?」
俺は自分の胸を指した。少女と同じ場所を。
「ならない場所が、ここにある。名前は出てくるし、顔も分かる。その人が俺に何をしてくれたかも、全部知ってる。……じいさんは、俺に弓をくれた。ガロは、俺を庇って肩を切られた。父さんは、俺の代わりに死んだ。全部、言える。空で言える。……だが、なぜその人が大事なのかが、出てこない」
「じゃあ、おぼえてるんじゃない」
「覚えてる。中身だけが、ない」
リタは首を傾げた。それから真面目な顔で頷いた。分かったという頷き方ではなく、この人も同じ場所が空いているらしい、という確認の頷き方だった。
「わたしのは、なんにも、ならないだけ」と、少女は言った。「なんにも、ならないから、なんにも、こまらないの。おねえちゃんは、ごはんくれるし、かみもといてくれるし、いいひとだし。……ただ、おねえちゃん、って、いっても、なんにも、ならないだけ。おにいちゃんのは?」
「痛む」
「いたい?」
「ああ」
少女は少しのあいだ黙って、街道の先を見ていた。轍が二本、赤い粘土の上を、どこまでも続いている。それから言った。
「……いたいの、いいなあ」
俺は答えられなかった。
十歳の子供が痛みを羨んだ。痛むということは、そこにまだ何かがあるということだと、この子はたぶん知らない。知らないまま、正しいところに手を伸ばしていた。
「わたしも、いたくなる?」
荷台の反対側で、ミレアが妹の背中を見ていた。その目を、俺は見ないようにした。
「……分からない」と、俺は言った。
嘘は、つかなかった。
◇
メルクの街が見えたのは、その日の夕方だった。
赤い粘土の丘に、赤い瓦の屋根が段々に重なり、街の周りを浅い水路が巡っている。城壁はない。粘土を捏ねるための水だと、門番が言った。この街は瓦と壺で食っていて、旅人が持ち込むのは銭だけで、面倒は持ち込まないことになっているらしい。門を抜けるのに、俺たちは何も聞かれなかった。
宿は市場の裏に取った。〈鉄樹〉の名は出さない。ヴァンネスが老いた行商の頭を演じ、俺たちはその護衛ということにした。星喰らいの一味の絵姿は、まだこの辺りまで届いていないらしかった。
飯を食いに降りた酒場で、コッツが最初の噂を拾った。いつものやり方だ。この小僧は誰にも話しかけない。壁際に座って、二杯目の水を飲む速さを他人の会話に合わせるだけで、半刻もすればその卓で誰が一番喋りたがりかを見抜いている。
戻ってきたコッツは、いつもより静かだった。
「兄貴。三日後、教会の巡察が来る」
卓の空気が変わった。
「聖アルデ養育院。街の東の外れだ。孤児を四十人ばかり抱えてる。……そこで、星視盤の検査があるとよ」
ミレアの匙が、皿に当たって鳴った。
「……街の連中は、何て言ってた」と、彼女が聞いた。
コッツは俺を見て、それから言いにくそうに口を開いた。
「めでたい、って」
「は?」
「選ばれた子はリディアの大聖堂に連れてってもらえる。学がつく。飯が食える。教会付きの書記にでもなりゃ、身内ごと引き上げてもらえる。去年の巡回で選ばれた子の親戚が、この街で瓦屋を始めたらしい。……誰も疑ってねえ。名誉なんだよ、ここじゃ」
ヴァンネスが低く唸った。
「よく出来とる。……坊主、これは金で買っとらんぞ。脅してもおらん。街の連中に、自分から差し出させとる。しかも感謝つきでな。これを止めるのは盗人を捕まえるより百倍難しい。盗まれた側が、盗まれたと思うとらんのだから」
誰も何も言わなかった。ガロが鉄鍋の縁を指で撫でていた。この男は考え事をするとき、必ず鍋か盾に触る。
「三日か」と、俺は言った。「なら、見に行く」
酒場の隅で、誰かが笑った。瓦屋の職人が、明日の窯の温度の話をしている。この街のどこにも、殺気はなかった。
「見て、どうするの」とミレアが顔を上げた。
「まだ決めない。決めるのは、見てからだ」
「――リゲル」
「じいさんに教わった。獣の足跡を見つけたら、まず座って見る。追いかけるのは、そいつが何を食う獣か分かってからだ。走り出したら、もう読めない」
ミレアは何か言いかけて、やめた。やめて、皿の芋を切り分け、リタの口に運んだ。
◇
その夜、ニラが俺の部屋に来た。
いつもの時間だ。旅に出てから、この時間だけは一日も欠けていない。彼女は椅子に座り、二冊目の手帳を開く。俺は寝台の縁に座る。それだけの決まりごとだった。
「今日の話は、村を出た日」と、ニラは言った。
「その話は、前に聞いた」
「聞いた。三回目」
彼女はページを繰らなかった。数えているのは、手帳ではなく、頭の中だ。この女は、俺に何を何回話したかを、全部、覚えている。
「……三回目か」
「三回目」彼女は少し笑った。「一回目は、あなた途中であくびした。二回目は、聞いてるふりをしてた。今日はちゃんと聞いて」
俺は頷いた。
ニラが話し始める。早春。まだ雪が残っていた。村の丘を越えるところで、俺は一度だけ振り返った。じいさんの小屋の煙が見えた。ニラは荷を担ぎ直すふりをして、俺より先に丘を下った。理由は、荷が重かったからではなかった。
「……あのとき、私、泣いてたの」
ペンは動いていなかった。
「あなたに見られたくなくて、先に歩いた。三十歩くらい進んで、もう大丈夫かなと思って、振り返ったら」
彼女はそこで一度、息を吸った。
「あなたも、泣いてた」
俺は自分の頬に触れた。
乾いていた。
「……俺も、泣いてた」
声にしてみて、それが他人の話に聞こえた。
「うん」
「なぜ」
「知らない」ニラは首を振った。「聞かなかったから。聞いたら、あなたが泣いてたことに気づいてるって、ばれるでしょ」
それから、彼女はペンを持ち直した。
「だから、そこは空白なの。私にも埋められない。あなたがあの日なぜ泣いたのかは、あなたの中にしかなかった」
記録者は、空白を空白のまま置いた。〈星の間〉の六つの寝台のときと、同じやり方で。
◇
ニラが出ていったあと、俺は寝台に横になって、いつもの儀式をした。
母。セラ。父。ドルク。じいさん。ガロ。ミレア。コッツ。ヴァンネス。ドッズ。ヘズラ。メイセン。ロコ。ジフ。三十一人。ミナ。トト。サラ。四十一の名前。名前の分からない、六人。リタ。
そして、ニラ。
名前は、出てくる。
丘の上で、泣いた十六の俺は。
出てこない。
俺は、掌を胸に当てた。
リタが、押さえていたのと、同じ場所に。
骨の裏側が。
灼けるように、痛んだ。
リタの、ここは、なんにも、ならない。
俺の、ここは痛む。
同じ器の、どこが、どう違うのかは。
分からなかった。




