第93話「継承者は忘れてい」
リディアを追われるように発った。
三日、街道を駆けた。追手は来なかった。教会は、〈星の間〉の異変を、公表しなかった。できなかったのだ。四十七人の子供が消えた、と発表すれば四十七人の子供がいた、と認めることになる。
沈黙が教会の、選んだ記録だった。
だが、その沈黙こそがニラの手帳の、価値を証明していた。
「……いつか、これを世に出す」
荷馬車の、荷台で彼女は、新しい手帳を抱きしめて言った。
「今じゃない。今出せば、私たちが消される。……でも、いつか。教会がこの沈黙を忘れた頃に。……記録は、長く残るから」
◇
三日目の、夕暮れ。
街道の、脇の名もない丘で俺たちは、野営を張った。
リタは眠っていた。ミレアがその、寝顔を見ていた。
三日間、ミレアは、妹に話し続けていた。
あなたの名前は、リタ。私の妹。母さんは、産後の熱で死んだ。父さんは、あなたが三つのとき、いなくなった。私があなたを育てた。教会の療養院に預けたのは、あなたの心臓に雑音があったから。……毎月、手紙を書いたでしょう。丸い癖字で。飴の話を書いてくれたでしょう――。
リタは聞いていた。
他人の話として。
頷いて時々、笑って。それから、「おねえちゃん」と、意味を知らない音を繰り返した。
それでも、ミレアは話し続けた。
二日目の夜、俺は彼女が泣きながら、話しているのを見た。
三日目の夜には、泣かずに話していた。
「……慣れるものね」と、彼女は、俺に言った。「あんたも、そうだった?」
「……ニラがそうだ」と、俺は答えた。「たぶん、話す側の方がずっと、辛い」
「そうね」
ミレアは、妹の髪を撫でた。
「でも、話さないと、この子の中にあたしは生まれないから。……百回でも、話すわ。千回でも」
◇
焚き火を囲んだ。
ガロが鍋を火にかけた。メイセンの、あの鉄鍋。旅にも持ってきていた。
塩汁の匂いが丘に広がった。
コッツが二杯目をおかわりした。ヴァンネスが下手な冗談を言った。ミレアがリタの口に匙を運んだ。少女は素直にそれを飲み込んでそれから、初めて少しだけ笑った。
「……あ」
ミレアが動きを止めた。
「今、笑った。……この子、塩汁で笑った」
誰も、何も言わなかった。
ただ、ガロが慌ててそっぽを向いて鼻を啜った。
メイセンという、会ったこともない男の、塩加減が。
十歳の少女の、失われた器の、底の底に届いて笑いを引き出した。
俺は、その光景を見て確信した。
消えたものは、無くなっていない。
沈んでいるだけだ。
器の底の、そのまた底に。
◇
火が小さくなった頃。
ニラが俺の、隣に座った。
手帳を開いてその日の、記録を書き終えたところだった。
「……リゲル」
「ああ」
「これから、どうするの?」
隊の、全員がこちらを見た。
焚き火が六人と一人の、顔を赤く照らしていた。
俺は、しばらく火を見ていた。
それから、言った。
「――大陸を巡る」
「巡る?」
「教会は、星視盤の巡回検査を続けてる。大陸中の療養院と、孤児院で。……四十七人を助けても、次の四十七人が集められる。止めなきゃ、ならない」
「教会と、戦うの?」とコッツ。
「戦い方は、二つある」と、俺は、言った。「一つは、剣で。……だがそれじゃ、俺たちが星喰らいの一味になる。教会の、記録通りに」
「二つ目は」
「記録だ」
俺は、ニラを見た。
「ニラの手帳と、ヴァンネスの帳面と、三通の封筒。……それを大陸中で増やす。星の力の澱のこと。空の器のこと。〈星の間〉のこと。……教会が正義の名で何をしているかを、記録して記録して記録し続ける」
そして、いつか。
教会の白い記録と、俺たちの、汚れた記録が並んだとき。
世界がどちらが汚れているかを決める。
「……気の長い戦だな」とヴァンネス。
「ああ」
「何十年、かかるか」
「たぶん、俺の、記憶がもたない」
俺は、笑った。誰も笑わなかった。
「――だから、あんたたちに頼む」
俺は、六人を見回した。
「俺は、忘れる。強くなるたびに。……いつか、この旅の目的すら、忘れるかもしれない。四十七人のことも。リタのことも。……そのときは、思い出させてくれ。何度でも。……百回でも、千回でも」
沈黙があった。
それから、ガロが鍋の、木杓子で鍋の縁を叩いた。
「――当たり前だろうが」
コッツがへへ、と笑った。
「兄貴。おれ、記憶力だけは、天才だからよ」
ミレアがリタの髪を撫でながら、言った。
「あたしの頭には、薬草の効能が三百、入ってるの。……あんたの旅の目的の、十や二十、余裕よ」
ヴァンネスが酒を呷った。
「爺の繰り言は、長えぞ。覚悟しろ」
そして、ニラが。
手帳を閉じて俺の、隣で言った。
「……私が書く。全部」
◇
その夜、俺は、眠る前に名前を唱えた。
母さん。名は、セラ。目尻が下がっていて、左の頬にほくろがあって、怒ると眉だけ動く。ニラが書いてくれた、母。
父さん。名は、ドルク。飴をいつも二つ買った。「二人で食え」と。ニラが書いてくれた、父。
じいさん。ベテル。俺に狩りを教えた人。……たぶん、俺を器として育てた人。それでも、俺の背骨を作った人。
ガロ。ミレア。コッツ。ヴァンネス。
ドッズ。〈銅の鎖〉の、隊長。俺が殺した男。
ヘズラ。メイセン。ロコ。ジフ。会ったこともない、四人。
スピカ戦で死んだ、三十一人。名前を全員、覚えている。
そして、四十七人。
ミナ。トト。サラ。……ニラの手帳から、写した、四十一の名前。名前の分からない、六人。
最後に。
リタ。
そして。
ニラ。
名前を唱え終えて。
俺は、隣で寝息を立てている、彼女の横顔を見た。
名前は、出てくる。顔も、分かる。この人が何をしてくれたかも、知っている。
だが、なぜ、この人が俺にとって特別なのかは。
まだ、分からない。
それでも。
その、分からない場所が。
今夜も、灼けるように痛んだ。
痛い、ということは。
まだ、そこにあるということだ。
手は届かない。
だが、いつか。
上から注がれ続けたものが。底に沈んだものと。
出会う日が来る。
その日まで。
俺は、忘れ続け。
この人は、書き続ける。
二人分の、記憶を抱えて。
忘れられた記憶は、どこへも行かない。
誰かの手帳の中に。誰かの頭の中に。誰かの塩汁の味の中に。
ちゃんと、残っている。
焚き火が消えた。
丘の上の、夏の夜空に。
冬の巨人は、いなかった。地平の遥か下。半年後にまた、昇ってくるその日まで。
だが、その代わりに。
天頂近くに。
一つの、青白い星が静かに光っていた。
乙女座の、一等星。
スピカ。
星は、まだそこにあった。
◇
遥か、北の辺境。
アーロイ村の、老狩人の、小屋。
炉端でベテルは、目を開けた。
何かを確かめるように掌を開き、閉じた。
その、掌の内側で。
何かが増えていた。
母の顔。父の背中。村の冬。初めて狼を仕留めた夜。
そして、つい先日。
新しく、流れ込んできた、ひとかたまり。
少女の記憶。
星祭りの夜の、焼き林檎の味。丘から見た、街の灯り。「似合ってる」と、言われた瞬間の、頬の熱。
――ああ。
老人は、目を閉じた。
その、皺深い顔に。
一瞬。
ほんの、一瞬だけ。
苦しげな色が走った。
まるで、他人の恋を他人の胸で味わってしまった者の、顔だった。
「……重いのう」
老人は、呟いた。
「重いぞ、リゲル。……お前は、こんなものを抱えて生きておったのか」
炉の火が爆ぜた。
老人は、窓の外を見た。
夏の、夜空。冬の巨人はいない。
だが、赤い右手が昇る日は、近い。
「……はよう、帰ってこい」
呟きは、誰にも届かなかった。
その声が渇望だったのか。
それとも、懺悔だったのか。
誰にも、分からなかった。
老人自身にも、たぶん。
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第一部「灰の街」 完
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