第92話「四十七の名前」
扉が開いた。
白い法衣と、白銀の鎧。聖騎士が六人。その、後ろに司祭が数人。
先頭の、聖騎士が〈星の間〉の、光景を見て剣の柄に手をかけた。
「――何者だ」
その、誰何の声を。
ガロの、盾が遮った。
大男が一歩、前へ、出た。鉄樹の紋の、盾を正面に構えて。
「悪いな。……ちょいと、迷子を迎えに来ただけだ」
「迷子、だと」
「四十七人、な」
◇
戦端は、瞬時に開いた。
だが、その戦い方を俺は、事前に全員に命じていた。
――誰も、殺すな。
教会の、聖騎士も。司祭も。一人も殺すな。ここで血を流せば、俺たちは「星喰らいの一味が、聖堂を襲い、聖職者を殺害した」という、教会の完璧な記録になる。
だから、殺さない。
制圧して縛って生かして帰る。
それが記録の、戦いだった。
「――行くぞ!」
俺は、長剣を抜いた。抜いて峰に返した。
聖騎士の、剣は速かった。教会の精鋭。だが、俺の足の裏は彼らの踏み込みを、拾っていた。眷属級の感覚。裂き腕の間合い。狂戦士の勘。ドッズの対人の足。
全部を使って俺は、殺さないことに専念した。
一人。手首を峰で打ち、剣を落とさせる。
二人。膝の裏を蹴り、崩し鳩尾に柄頭。
三人目が剣を振り上げた。その、腕の下を潜り。
――その時。
器の底の滴が。
疼いた。
甘いあの感覚。核を突いたときの、あの充足。
ここでこの男の、喉を掻き切れば。
剣の、腕を継げる。
教会の精鋭の技を全部。
――継げ。
誰の、声でもない声が囁いた。
その囁きがあまりに自然に聞こえたことが恐ろしかった。
俺は。
剣の峰を。
男の、鎧の隙間ではなく、鎧の面に叩きつけた。
わざと。
殺せる場所を外して。
鈍い音とともに、聖騎士が崩れ落ちた。生きている。息をしている。
「……悪いな」
俺は、その男に言った。
そして、自分の、器の底に言った。
「――俺の器に何を入れるかは、俺が決める」
◇
五分と、かからなかった。
聖騎士六人、司祭四人。全員、気絶。誰も死んでいない。
ミレアが縛り上げながら、感嘆の声を漏らした。
「……無傷で十人。あんた、本当に化け物ね」
「殺すより、難しい」と、俺は、言った。「殺す方がずっと、簡単だ」
それは、事実だった。
そして、その事実こそがこの二年で俺が一番、恐れるようになったものだった。
◇
だが、問題はその後だった。
四十七人の、子供。
動ける子は、十人ほど。残りは意識が朦朧としているか、まったく目を開けない。
抱えて運ぶには、多すぎた。
「――水路を使う」とコッツ。「でも、六人で四十七人は、無理だ。往復すりゃ、見つかる」
「運び屋は」
「水路の、出口で待ってる。でも、あそこまで運ぶのが」
時間がなかった。
その時。
ニラが手帳を抱えて寝台の、列を走っていた。
一台ずつ、覗き込んで。何かを書いている。
「ニラ! 何をしてる!」
「名前!」
彼女が叫び返した。
「番号じゃない! この子たちの、名前を書いてるの! ……見て、リゲル。この寝台の、裏!」
俺は、駆け寄って覗き込んだ。
寝台の、裏板。
そこに。
小さな、爪の、引っ掻き傷で。
文字が刻まれていた。
『ミナ』
隣の、寝台の裏には。
『ぼくは、トト』
その、隣には。
『わたしのなまえは、サラです。わすれません』
忘れません。
番号を与えられ、名前を奪われた、子供たちが。
澱を注がれ、記憶を押し出される前に。
自分の、名前を。
寝台の、裏に。
爪で。
「――全部、書く」
ニラの、声は、震えていた。震えながら、ペンは止まらなかった。
「一人も残らず。……この子たちが、自分で残した名前を私が写す。四十七人、全員」
◇
俺は、動けなかった。
十歳の子供が。何日かあるいは、何ヶ月か、この白い部屋で。
明日には、忘れるかもしれない自分の、名前を。
寝台の裏に爪で刻んでいた。
誰にも、見つからないように。
誰かがいつか、見つけてくれることを、願って。
――名前が大事だと、この子たちは、知っていた。
誰にも、教えられずに。
器にされようとする者だけが、辿り着く真実として。
「……ニラ」
俺は、言った。声が掠れた。
「手伝う」
「え?」
「俺も、書く。……全部、写す。一人残らず」
コッツが駆け寄ってきた。ガロも。ミレアも。ヴァンネスも。
誰も、何も、言わなかった。
六人と一人が四十七の寝台の、裏板を覗き込んで。
爪の傷を写し取った。
逃げる時間を削って。聖騎士が次に来るまでの、限られた時間を削って。
名前を集めた。
◇
全部で四十一の、名前があった。
六人の子は、何も書いていなかった。書く前に注がれたのか。書く力がなかったのか。書く文字を知らなかったのか。
ニラは、その六人分の、頁にも印をつけた。
『名前、不明。三十番。九番。十七番。二十二番。三十八番。四十四番。……いつか、思い出したら、教えてください』
教えてください、と書いた。
記録者は、空白を空白のまま、残した。埋めるのは、この子たち自身だ、と。
◇
脱出は、地獄だった。
動ける子供に動けない子供を背負わせ、大人が両脇に二人ずつ。ガロが四人を担いだ。ヴァンネスが三人。ミレアがリタを。
水路の闇を進んだ。子供たちは、誰も、泣かなかった。泣く力もないのだ。
出口に運び屋が待っていた。荷馬車が五台。
「……四十七人だ」と、俺は、言った。
「聞いてる」運び屋の頭が、頷いた。「大陸中に散らす。三十日で。……名前は、変えるぞ」
俺は、ニラを見た。
彼女は、頷いて新しい手帳を掲げた。
「変えてください」と、彼女は、言った。「でも、元の名前は、ここにあります。……この子たちが、いつか、取り戻したくなったら。私が返します」
運び屋の頭は、その手帳をしばらく、見ていた。
それから、初めて笑った。
「……あんた、変な女だな。命が懸かってるのに、名前の心配か」
「名前は、命の入れ物ですから」
荷馬車が夜の街道へ、消えていく。
四十七の、小さな命を乗せて。
名前を預かった、俺たちを残して。
◇
空が白み始めていた。
白い街の、白い夜明け。
大聖堂の、鐘が鳴った。
まもなく、〈星の間〉の、異変が発覚するだろう。追手が来る。この街に留まることはできない。
だが、俺たちはしばらく、その場を動かなかった。
ミレアの腕の中で、リタが目を開けていた。
姉の顔を不思議そうに見上げて。
それから、掠れた声で言った。
「……あなた、だあれ」
ミレアは、涙を拭った。
拭って笑った。
世界で一番、優しい顔で。
「……ミレアよ。あなたの、お姉ちゃん」
少女は、しばらく、その顔を見ていた。
それから、小さく頷いた。
「……おねえちゃん」
意味を知らずに。
ただ、音として繰り返した。
その、たった一言が。
白い夜明けの街に。
静かに落ちた。




