第91話「星の間」
二十七日の夜。
大聖堂の、鐘が夏至の聖務を告げた。
白い街の、信徒たちが祈りの声を上げる。その、大合唱の下で。
俺たちは、古い水路の、闇を進んでいた。
三百年、水の流れない石の管。埃と蜘蛛の巣と、乾いた苔。コッツの、油灯だけが道を照らす。
「――ここだ」
少年が天井を指した。
頭上に白い石があった。周りの、灰色の玄武岩の中で、そこだけが白い。〈星の間〉の、床。三百年前の水路に、蓋をした、白い石。
足の裏が告げていた。
その上に。
澱がある。
スピカの、何十倍もの、量の。
「……蓋を開ける」と、俺は、言った。「ガロ、支えろ。コッツ、隙間に楔を。ミレア、灯りを消す準備。……ニラ」
俺は、振り返った。
旅装の、彼女が真新しい手帳を抱えてそこにいた。
「……危なくなったら、俺の背中の、後ろに」
「うん」
「返事が軽い」
「軽くない」ニラは、笑った。「私、書くのが仕事だから。書くには、生きてなきゃならない。……生き延びる理由が、あなたより明確なの」
◇
白い石が外れた。
息を殺して俺は、頭上の、闇に身を滑り込ませた。
そして。
〈星の間〉を見た。
◇
白い、円形の大広間だった。
天井は、丸いドーム。壁は、継ぎ目のない、白い石。ヴェルデの遺構と、同じ質感の朽ちない建材。
その、壁一面に。
星図が刻まれていた。
遺構と同じ。巨人の、星座。右手に赤い宝石。左足に青い宝石。帯に三つの、星。
だが、遺構と、違うものが一つあった。
広間の、中央に。
巨大な水盤があった。
直径、十歩ほど。白い石を刳り抜いた、浅い盤。
その中に満ちているのは、水ではなかった。
白い、光だった。
とろりと、粘り気を持って。脈打ちながら。ゆっくりと、渦を巻いている。
澱だ。
星の力の澱。スピカと、同じもの。それがこの盤に封じられ――溢れる、寸前まで満ちていた。
そして。
その、水盤を囲むように。
四十七の、寝台が放射状に並んでいた。
一つずつに子供が眠っていた。
みんな、痩せていた。みんな、青白かった。誰も、動かなかった。眠っているのか、意識がないのか、区別がつかなかった。
誰も、悲鳴を上げていない。誰も、鎖に繋がれていない。
ただ、清潔な、寝具に寝かされて。
静かに。
まるで、療養院のように。
その、静けさが俺の、腹の底を凍らせた。
これは、拷問部屋では、ない。
病院の形をした、器の置き場だった。
◇
隊が続いて降りてくる。
ミレアが一目で寝台の、列に駆け寄ろうとした。
俺は、その腕を掴んだ。
「――待て。まだ、司祭がいる」
広間の、奥。祭壇の前に二人。白い法衣。祈祷を上げている。夏至の聖務の、間も〈星の間〉には、当番が残る。
コッツの、目が光った。
「……おれがやる」
少年が闇を滑った。
二つの、鈍い音。眠り薬を染ませた布。教会の当番は、悲鳴も、上げずに崩れ落ちた。殺さない。ミレアの薬と、コッツの、腕がそれを可能にした。
「――今よ!」
ミレアが走った。
寝台の、列を一つずつ、覗き込んでいく。名札はなかった。子供たちに名前は、与えられていなかった。
番号だけが寝台の脇に彫られていた。
一番から、四十七番まで。
名前を奪われている。
俺の掌が震えた。
名前を奪うことは、その者を人ではなく、器にするということだ。器に名前は要らない。
そして、この静かな部屋で。
教会は、四十七人の、名前を。
番号に置き換えていた。
「――リタ!」
ミレアの、押し殺した叫び。
三十一番の、寝台。
小さな、少女がそこにいた。
◇
十歳の、少女だった。
ミレアと、同じ、栗色の髪。痩せた、腕。青白い、顔。
眠っている――ように、見えた。
ミレアがその、頬に触れた。
「リタ。リタ、お姉ちゃんよ。……起きて。迎えに来た」
少女の、瞼が震えた。
開いた。
そして、その目が。
ミレアを見た。
見て――何も、映さなかった。
焦点が合っていない。虚ろ、というのとも、違う。ただ、その瞳の奥がぼんやりと。
白く、光っていた。
「……リタ?」
ミレアの、声が掠れた。
「リタ。あたしよ。お姉ちゃん。……分かる?」
少女の、唇が動いた。
掠れた、細い、声が漏れた。
「……おねえちゃん、って」
その声は、幼くそしてどこか、遠かった。
「……なあに?」
◇
時が止まった。
ミレアが動かなかった。手を伸ばしたまま。少女の、頬に触れたまま。
その手が震え始めた。
「……嘘」
「ミレア」
「嘘よ。……第一段って。第一段は、まだ注がれてないって、同僚が――」
ニラが寝台の脇の、記録板を見つけた。
掲げて読んだ。
「……『三十一番。第一段、施行済。適合。第二段へ移行予定』」
施行、済み。
リタは、既に。
澱を注がれた後だった。
空だった器に。星の力の、澱が一段分。
そして、注がれた分だけ。
押し出されて。
消えたのだ。
姉の名前が。姉との記憶が。
十年分の、この子の全部が。
リゲルの器と。
同じ仕組みで。
「……あ」
ミレアの、喉から声にならない音が、漏れた。
「……あ、あ、あああ」
治療術士は、崩れ落ちた。
妹の寝台の脇に。膝をついて。少女の、小さな手を両手で包んで。
声を殺して泣いた。
だが、少女は。
姉の涙を不思議そうに見てそれから、また、目を閉じた。
泣いている人が、誰なのか、分からないまま。
◇
俺は、その光景を見ていた。
見ながら、自分の、胸の深いところが。
灼けるように痛むのを感じていた。
知っている。
その痛みを俺は、知っている。
目の前で泣いている人が大事な人だと、頭では分かる。だが、その「大事」の中身が、どこにもない。
リタは今、俺と同じ場所にいる。
だから、俺には、分かった。
この子は、姉を忘れたのではない。
姉を見ていた自分の、まなざしを失ったのだ。
「……ミレア」
俺は、彼女の、肩に手を置いた。
「連れて帰ろう」
「でも、この子は、もう」
「連れて帰るんだ」
俺は、言った。自分の、声が震えているのが分かった。
「……俺も、そうだった。ニラを忘れた。……だが今、俺は、ここにいる。ニラの隣に。……失くしたものは、埋め直せる。何度でも」
ミレアが顔を上げた。
涙でぐしゃぐしゃの顔で。
「……本当に?」
「本当だ」
それは、嘘かもしれなかった。
俺自身、まだ、ニラを取り戻していない。
だが、俺の隣には二年半書き続けてくれた人が、いる。
なら、この子にも。
姉がいる。
「……百回でも、話してやれ」と、俺は、言った。「あんたがこの子の、姉だったことを。……百回、駄目なら、千回。……それが俺たちの、やり方だ」
ミレアは、頷いた。
頷いて妹を抱き上げた。
十歳の少女は、驚くほど、軽かった。
◇
その時。
広間に鐘の音が響いた。
夏至の聖務の、終わりを告げる、鐘。
聖騎士たちが儀式から、戻ってくる。
そして、扉の、向こうから。
幾つもの、足音が近づいていた。




