第90話「九日間」
九日間は、静かに過ぎた。
静かに見えてその内側では、六人と一人がそれぞれの戦いを、していた。
◇
コッツは、地下水路に潜り続けた。
三日目の夜、泥まみれで帰ってきた少年は、床に地図を広げた。自分で描いたものだった。
「大聖堂の、下は、二重になってる」
泥を拭いもせずに少年は、指を走らせた。
「上が排水路。今も、使ってる。……その、さらに下に古い水路がある。三百年前の。今は、使われてなくて水も、流れてねえ。……でその古い水路の、天井の、一箇所が」
コッツの、指が止まった。
「――〈星の間〉の、床だ」
全員が息を呑んだ。
「壁の材質がそこだけ、違うんだ。ぶ厚い、白い石。他は、灰色の玄武岩。……たぶん、〈星の間〉を造ったとき、古い水路の上に蓋をしたんだ。蓋の下から入れる」
「破れるのか」とガロ。
「一人じゃ、無理。……でも、旦那の盾があるだろ」少年は、にやりと笑った。「あと、おれの仕掛けと。ミレアの姐さんの、薬と。……そんで兄貴の剣があるだろ」
◇
ミレアは、五日目に同僚と、接触した。
帰ってきた彼女は、青ざめていた。
卓に置かれたのは、一枚の羊皮紙。
「……〈星の間〉の、儀式の、次第。同僚が写した。……見て」
六人が覗き込んだ。
儀式の、手順。祈祷の、文言。そして、その、中ほどに。
『――器を聖水にて浄め、澱を注ぐ。注ぐ量は、器の大きさに応じ、三段に分かつ。第一段に耐えし器は、第二段へ。第二段に耐えし器は、第三段へ。三段を耐えし器は――』
そこで文は、途切れていた。写せなかったのだ。
「……耐えなかった器は、どうなるの」
誰も、答えなかった。
出ていく、空の寝台。療養が済んだ子のものです、と言った門番。
答えは、既にそこにあった。
「リタは」ミレアの声が、震えた。「リタは、まだ第一段よ。……同僚が確認してくれた。四十七人のうち、第一段が二十九人。第二段が十四人。第三段が――四人」
「その、四人は」
「……一人も、生きて出てきてない」
部屋が凍った。
四十七人の、器。三段の篩。
澱を注がれ、耐えた者だけが次の段へ。耐えなかった者は、空の寝台になって、運び出される。
教会は、何を作ろうとしているのか。
三段の澱に耐えうる、器を。
それは、たった一人でいい。
その、一人に――〈星の間〉に溜まった、澱の全部を注ぐために。
「……人間の、スピカを作る気か」と、ヴァンネスが呻いた。
「いいえ」
ミレアが首を振った。
「逆よ。……スピカを防ぐために作るの。澱が溢れて獣になる前に人間の器に移し替える。……教会にとっては、これは、聖務なの。四十七人の孤児で、大陸中の街を救えるなら、安いものだって」
正義だ。
一分の、狂いもない、正義。
グレムの、商売よりずっと、始末が悪かった。
そして、俺はそこで気づいた。
「……待て。じゃあ、なぜ俺は狙われた」
全員が俺を見た。
「教会が欲しいのは、澱を注ぐ器だ。……なら、俺は、最高の獲物のはずだ。星無しで大人で階層主を狩る体力がある。三段の澱にも、耐えられるかもしれない。……なのに審問局は、俺を『星喰らい』として、処断する側に分類してる」
部屋が静まった。
答えたのは、ニラだった。
「……もう、注がれてるから、じゃない?」
俺の、背筋が凍った。
「教会が注ぎたいのは、空の器。……あなたの器には、もう、何かが入ってる。星継で継いだもの。スピカの滴。……教会から見たら、あなたは、『勝手に自分で注ぎ始めた器』なの」
勝手に注ぎ始めた、器。
だから、処断の対象。
教会にとって器は、教会が注ぐものであって。
器が自分で何かを注ぐことは。
許されない。
◇
ヴァンネスとガロは、七日目に渡りをつけてきた。
リディアの、地下の、運び屋たち。教会の、目の届かない場所で、生きる連中。
「金は、かかる」とヴァンネスが、言った。「だが、四十七人を大陸中に散らすことは、できる。三十日で。……ただし条件が一つ」
「条件?」
「子供らの、名前を変えることだ」
名前を変える。
生き延びるために。教会の、追跡から、逃れるために。
俺は、その言葉を聞いてしばらく、黙っていた。
「……ガロ」と、俺は、訊いた。「もしあんたがその子供だったら。名前を変えるか」
大男はしばらく、考えてそれから、言った。
「変えるさ。生きるためなら」
「そうか」
「だがな、リゲル。……変えた名前の、下に元の名前を書いて俺たちが持っとくのは、どうだ」
俺は、顔を上げた。
「あいつらは、名前を変える。それでいい。生き延びるためだ。……だが元の名前をこの世から、消す必要は、ねえ。俺たちが覚えとく。ニラの嬢ちゃんが書いとく。……いつか、あの子らが名前を取り戻したくなったら。返してやれるように」
名前を預かる。
それはこの記憶と名前の物語の、一番美しい形の一つだった。
◇
そして、ニラは。
九日間、宿の、机に向かい続けた。
何を書いているのか、俺は訊かなかった。彼女も、言わなかった。
だが、八日目の夜。
彼女は、俺に一冊の、新しい手帳を見せた。
まっさらな、頁。
「これ、〈星の間〉に持っていく」
「……何を書くんだ」
「見たこと、全部。……子供たちの名前。人数。儀式の装置。司祭の顔。日付。時刻」
ニラは、手帳を抱きしめた。
「あのね、リゲル。教会は、記録を持ってる。私たちがいくら『子供が犠牲になった』って叫んでも、教会は正式な記録を出して、『療養でした』って言うの。……記録には、記録でしか勝てない」
記録には、記録でしか勝てない。
ヴェイユの、投げ捨てた帳面を、俺は思い出していた。
「だから、私は、書く。……教会の記録と、並べて置いたときに。どっちが汚れて見えるかを、世界に決めさせるの」
◇
潜入の、前夜。
俺は、眠れずに宿の屋根に上がった。
白い街の、屋根の海。その中心に月光を浴びた、大聖堂。
明日、あの下へ、潜る。
足の裏に意識を集める。
大聖堂の、地下から――微かに、脈打つものがあった。
スピカの、あの白い光の、脈動と。
同じ、拍だった。
澱がそこにある。地の底に溜まり封じられ、溢れる日を待つ星の力の、澱が。
そして、その澱を注がれるために。
四十七人の、空の器が。
俺と同じ空の器が。
眠っている。
俺は、自分の掌を見た。
その、掌の内側。俺の器の底には。
スピカの滴が一つ。
甘く、静かに沈んでいる。
明日、俺はあの澱の、真上に立つ。
器の底の滴が。
その、大量の同族と、呼び合わないと、誰が言えるだろう。
屋根の上で俺は、名前を唱えた。
母。父。じいさん。ガロ。ミレア。コッツ。ヴァンネス。ドッズ。
そして、ニラ。
一つずつ、確かめるように。
明日、何を失うのかを。
数えるように。




