第89話「聖教国リディア」
リディアは、白い街だった。
二十日の旅の果て、丘を越えてそれが見えたとき、コッツが間の抜けた声を上げた。
「……うわ。なんだこりゃ。……白ぇ」
白亜の城壁。白い石畳。白い屋根。そして、街の中心に天を突いて聳える、大聖堂。
ヴェルデが灰の街なら、ここは、白の街だった。灰は、燃えた後の色だ。白は――何も、燃やしたことのない色だった。
「綺麗ね」と、ミレアが言った。
その声には、憎しみが含まれていた。
「あたしこの街で十四年、育ったの。……この白は、毎年、塗り直してるのよ。信徒の寄進で。……汚れが目立つから」
汚れが目立つから、塗り直す。
それがこの街の、成り立ちの、全部を言い表しているようだった。
◇
巡礼団に紛れて門をくぐった。
検問はあった。だが、厳しくはなかった。夏至の聖務が近い。大陸中から、巡礼が押し寄せる季節だった。俺たちは、その白い波の、一部として街に飲み込まれた。
白い街の、内側を歩いて。
俺は、すぐに気づいた。
白いのは、大通りだけだった。
一本裏へ入れば、そこには、灰色の路地があった。物乞いが壁に背を預けている。痩せた子供が巡礼の落とした、パンの欠片を拾っている。白い石畳は、大通りの、二歩内側で終わっていた。
「……ヴェルデと、同じだな」と、ガロが低く、言った。
「違う」ミレアが、首を振った。「ヴェルデは、灰の街だから、誰も綺麗なふりをしない。……ここは、白く塗ってから、路地に掃き寄せるの。汚れを」
塗り直される白。
掃き寄せられる灰。
そして、掃き寄せられた場所から、教会は子供を拾う。療養院という名前の、篩にかけて。星視盤という名前の目利きで。
空の器を。
宿は、下町の、安宿を取った。
荷を下ろし六人と一人――〈鉄樹〉の六人と、ニラが狭い部屋に集まった。
「〈星の間〉への潜入は、月の、二十七日」と、俺は、切り出した。「あと、九日ある。それまでにやることが三つ」
ヴェイユの、あの情報を俺は、隊に話していなかった。「同盟の伝手で掴んだ」と、だけ言った。あの女の、選択を記録に残さないために。それが彼女への、たった一つの返礼だった。
「一つ。地下水路の、下見。コッツ、あんたの領分だ」
「おう」
「二つ。〈星の間〉の、内部の、情報。……ミレア、あんたの同僚にもう一度、繋げるか」
「繋ぐ」ミレアは、即答した。「命がけで地図を写してくれた人よ。……でも、今度は、あたしが命を賭ける番」
「三つ」
俺は、少し言い淀んだ。
「……四十七人を、連れ出した後の、逃走路だ。子供を四十七人、抱えて白い街を抜ける。これが一番、難しい」
「そこは、俺とガロだ」ヴァンネスが、言った。「灰の同盟の、リディア支部――ってのは、まだねえがな。この街にも、独立系の冒険者はいる。教会に飼われてない連中が。……そいつらに渡りをつける」
全員が頷いた。
だが、ニラだけが手を挙げた。
「……四つ目、あるよ」
「四つ目?」
「記録」ニラは、当然のように言った。「〈星の間〉で何が行われているか。その証拠。……子供を助けるだけじゃ、教会は、また次の四十七人を集めるでしょう。止めるには、記録が要るの。世に出せる、動かせない証拠が」
部屋が静まった。
誰も、そこまで考えていなかった。
「危険だ」と、俺は言った。「潜入の中で記録まで取るのは」
「私がやる」ニラは、言った。「戦えないから。……戦えない人間が、潜入について行く理由なんて、それしかないでしょう」
その言い方は、あまりに静かで。
誰も、反論できなかった。
◇
その晩、俺はニラと、二人で街を歩いた。
下見も兼ねていた。だが、正直に言えば――理由は、それだけではなかった。
白い街の夜。石畳が月光を跳ね返して青白く、光っていた。大聖堂の、尖塔が星空を突き刺している。
「……綺麗だね」と、ニラが言った。
「ああ」
「星祭りの夜も、こんなこと、言ったの。私」
俺は、足を止めた。
「……そうか」
「うん。丘の上で。街の灯りを見下ろして。……あなた、なんて答えたと思う?」
「……分からない」
「『ああ』って。今と、同じ」
ニラは、笑った。
「あなた二年間私が『綺麗だね』って言うたびに、『ああ』しか、言わないの。何十回も。……でもね、私、知ってるの。その『ああ』の言い方が、毎回、違うって」
手帳を開いて彼女は、頁をめくった。
『第三十八回。「綺麗だね」に対して、リゲル「ああ」。……今日の「ああ」は、少しだけ私の方を見てから、言った』
「……記録してるのか。それも」
「してるよ。全部」
ニラは、手帳を閉じた。
「あなたが覚えてなくても。あなたの、『ああ』の、一つ一つが違ってたってことは。……私が覚えてる」
星空の下で俺は、その、几帳面な横顔を見ていた。
そして、また。
胸の底の、そのまた底が疼いた。
最近、それは頻繁になっていた。ニラが何かを記録するとき。彼女が笑うとき。彼女がこうして隣を歩くとき。
疼く場所は、いつも同じだった。
器の、底。
手の届かない場所。
だが、確かにそこにある。
「……ニラ」
「うん」
「一つ、頼みがある。……この街を二人で歩いた、今夜のことを。記録しておいてくれ」
ニラの、手が止まった。
「……いつも、してるけど」
「そうじゃなくて」
俺は、言葉を探した。
「……俺がもしまた、忘れたら。今夜のことも、話してくれ。何度でも。……俺があんたの隣を歩いて星を見て、『ああ』としか言えなかったことを」
ニラは、しばらく、俺を見ていた。
それから、彼女は、両手で顔を覆った。
覆った、指の隙間から。
声が漏れた。
「……ずるい。ずるいよ、リゲル」
「……悪い」
「悪いって思ってないでしょ」
思っていなかった。
なぜなら、それは俺が初めて自分から、彼女に頼んだことだったからだ。
埋め直してくれ、ではなく。
これから失うかもしれないものを、先に預けさせてくれ、と。
それは、たぶん。
忘れる男が覚えている人にできる、たった一つの、愛情の形だった。
◇
大聖堂の、鐘が鳴った。
深夜の、聖務を告げる鐘。
その、白い塔の遥か下。地の底に。
四十七人の、空の器が眠っている。
その中の、一人がミレアの妹だ。
九日後。
俺たちは、あの塔の下へ潜る。
白い街の、一番、深い場所へ。




