第88話「分かれ道」
旅は、五日目に最初の、分岐に差しかかった。
街道の分かれ道。石の道標が一本、立っている。
右へ、行けば――北。辺境。アーロイ村。
左へ、行けば――南。聖教国リディア。
荷馬車は、当然左へ行く。
だが、俺は、その道標の前で馬車を止めさせた。
◇
北の道は、細く寂れていた。
二年前、俺とニラが荷馬車に揺られて、下ってきた道だ。あの日は、逆向きだった。村を背にして街へ。
今、その道の向こうに。
じいさんがいる。
『その日が来たら、村へ、帰ってこい』
六通目の、最後の一行。
帰れば答えがある。二年間の、疑いの全部の答えが。あの人が何者なのか。俺の失ったものが、どこへ、行ったのか。母の顔が。父が。ニラとの、日々が。
――お前が失ったものは、無くなってはいない。ただ、お前の手の届かぬ場所に、移った。
移った、先が。
あの人のところなら。
俺の、母の顔は。父の、笑い声は。ニラを見ていた、俺のまなざしは。
今、あの炉端にあるのか。
誰の、ものでもない記憶として。あの人の器の中で。
「――リゲル」
ヴァンネスの、声だった。
老兵は、俺の隣に立っていた。北の道を見ている、俺の、視線の先を確かめるように。
「例の、報せが届いた」
荷から、一枚の、紙。同盟の伝手でアーロイ村へ、走らせた、確認の返事だった。
「――ベテル爺は、村にいる。二年、村を離れたことはねえ。冬も、夏も。ずっと、小屋にいて時々、山に入る。……村の連中の証言は、一致してる」
一致している。
「もう一つ」ヴァンネスは、続けた。「村の年寄りに訊いてもらった。ベテル爺は、いつから、村にいるかって。……答えは、『わしが子供の頃には、もうあの小屋にいた』だとよ。答えたのは、七十を超えた、婆さんだ」
六十年。
少なくとも、六十年。
猪煮込みの、婆の証言と、同じだった。あの人は老いない。
「村を離れず老いず遠くの出来事を正確に知り、手紙を書く」ヴァンネスは、静かに言った。「……坊主。これは、人間の話じゃねえかもしれん」
◇
俺は、北の道を見ていた。
隊の、全員が俺を見ていた。
誰も、何も、言わなかった。ここで「行くな」と言えば、俺が意固地になることを、この人たちは知っていた。
行きたい、と思った。
猛烈に行きたかった。
なぜなら、俺には確かめたいことが、一つだけあったからだ。
それは、じいさんの正体でも、星継の秘密でもなかった。
母の顔だ。
俺は、母の顔を思い出せない。二年、思い出せない。名前は、セラ。目尻が下がっていて左の頬にほくろがあって、怒ると眉だけ動く――ニラが、書いてくれた言葉だけの母。
あの、炉端に行けば。
あの人がそれを持っているなら。
見せてくれるかもしれない。
一目でいい。
母の、顔を。
◇
「……リゲル」
ニラの、声だった。
いつの間にか、彼女は、俺の隣に立っていた。手帳を抱えて。
「行きたい?」
見透かされていた。
「……ああ」と、俺は、正直に答えた。「行きたい。……母さんの顔が、あそこにあるかもしれない」
ニラは、頷いた。
頷いてしばらく、北の道を一緒に見ていた。
それから、言った。
「行こうよ」
俺は、驚いて彼女を見た。
「え?」
「行こう。……村に。私も一緒に行く」
「ニラ、それは」
「でもね」
彼女は、俺の、言葉を遮った。遮って静かに続けた。
「その前に一つ、確かめて。……あなたが村に行きたい理由は、なに?」
「母さんの、顔を」
「うん。それで?」
「……」
「もう一つ、あるでしょう」
ニラは、まっすぐ、俺を見た。
「あなた私のことも、取り戻したいって、思ってる。……そうでしょう」
心臓が止まりかけた。
図星、だった。
母の顔。父。村の冬。そして――彼女との、日々。
あの人の、器の中にそれがあるなら。
取り戻したい。
この人をもう一度、正しく、見られる目を。この人の、隣で何を感じていたのかを。
「……悪いか」と、俺は、絞り出すように言った。
「ううん。嬉しい」
ニラは、笑った。
泣きそうな顔で笑った。彼女の、いつもの、一番強い顔だった。
「すごく、嬉しい。……あなたが私を取り戻したいって、思ってくれるのが。……だからその気持ちだけで、私はあと十年は、書き続けられる」
だから、と、彼女は言った。
「行かない」
「……ニラ」
「今は、行かない。……リゲル。よく聞いて」
ニラは、俺の両手を握った。冷たい、細い指だった。
「あなたが村に行くのは、あなたの、失くしたものを取り戻すため。……でもリディアには、四十七人の子供がいる。あの子たちは、まだ何も、失くしてない。これから、失くす。……取り戻すのと、失くさせないのと。どっちが先?」
答えは、決まっていた。
決まっているから、苦しかった。
「それにね」ニラの、声が震えた。「……私、怖いの。あなたが村に行くのが」
「……なぜ」
「あの手紙の人が、あなたの記憶を持ってるなら。……返してくれると、思う? ただで?」
部屋の、ような静けさが街道に落ちた。
「二年、その人は、あなたに器の話をし続けた。あなたを鍛えた。名前を唱えさせた。名簿に殺した人の名前まで、加えさせた。……全部、あなたをまっとうな人間として、保つ教えだった。ヴァンネスさんの言う通り、疑えない場所を作るために」
ニラは、俺の手を握る力を強めた。
「そして、器が満ちてきた今。初めて『帰ってこい』って、書いた。……ねえ、リゲル。あなたが村に行って母さんの顔を見せてもらったら。……次は、その人が何を要求すると思う?」
器を。
差し出せ、と。
二年、かけて育てた、この器を。
俺は、北の道を見た。
細く、寂れた、山への道。あの先に。俺の失くしたもの全部を抱えた、化け物が炉端で待っている。
温かい、じいさんの顔をして。
「……行かない」
俺は、言った。
声が掠れた。
「まだ、行かない。……リディアだ。四十七人が先だ」
ニラは、頷いた。
頷いて俺の手を離した。離す間際、その指がほんの少し名残惜しそうに動いたのを俺は、感じた。
感じて――胸の、底の、そのまた底で。
何かがまた、疼いた。
◇
荷馬車が左へ、曲がる。
南へ。リディアへ。
北の道が後ろへ、遠ざかっていく。
俺は、荷台からそれを見ていた。
いつか、あの道を行く。
母の顔を取り戻しに。父を村の冬を初めての狩りの夜を。そして、隣にいるこの人との、全部の日々を。
取り戻しに行く。
だが、それは今日ではない。
今日は、まだ失っていない子供たちの、ところへ。
分かれ道の、道標が小さくなってやがて木立に隠れて見えなくなった。




