↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
継承者は忘れていく ~才無しと蔑まれた狩人は、敵を狩るたび最強に近づき、大切な記憶をひとつずつ失っていく~  作者: あおあお


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
87/154

第87話「発つ日」


出立の朝は、よく晴れていた。


春の終わり。夏の匂いが風に混じり始めていた。二年前、俺とニラがこの街の門をくぐった日と、同じ季節だった。


荷馬車は、二台。


一台に荷と、旅の支度。もう一台に人。行商の巡礼団に紛れ込む形でリディアへ向かう。ヴァンネスの、同盟の伝手だった。


見送りは、来ないはずだった。


目立つ旅で、ない。教会の本拠地へ、忍び込む旅だ。静かに出るはずだった。


だが、南門の前には人がいた。


◇


まずオルガ婆がいた。


古着の玉座から、わざわざ、出てきたらしい。煙管を咥えたまま、俺たちを値踏みしてそれから、ぶっきらぼうに包みを押しつけてきた。


「干し芋だよ。……道中、腹が減るだろ」


「婆さん」


「勘違いするんじゃないよ」煙管が、俺の胸を突いた。「餞別じゃない。前払いだ。……あんたら、いつか、この街に帰ってくるだろう。そのとき、耳を揃えて返しな。恩ってのは、そういう風に回すもんだ」


帰ってくる前提の、押しつけだった。


婆の後ろには、スラムの、子供たちがいた。コッツが串を奢った、あの子たち。誰も、何も、言わずにただコッツの袖を掴んでは、離した。


コッツは、洟を啜って一人ずつ、頭を撫でた。


「……行ってくらぁ。留守は、頼んだぞ。おれの、目を貸してやったろ。使えよ、ちゃんと」


その、子供たちの、後ろに。


井戸端の、婆さんたちがいた。


ガロが二月、桶を引いてやった、あの人たちだ。誰かがガロに水筒を押しつけた。誰かがその、盾を持たない右腕を、両手で包んだ。


「……あんた、帰ってくるんだろうね」


「……ああ」ガロの、声が震えた。「帰る。……井戸の番は、まだ俺の、仕事だ」


「なら、いい」


婆さんたちは、それ以上、何も言わなかった。裏切りの醜聞も、盾を手放した理由も、この人たちは、たぶん全部知っている。知った上で二月分の、桶の重さでこの男を量り直した。


恩を金より、長く覚える界隈だった。


◇


青麦の、五人がいた。


ピノが真新しい、旗を持っていた。灰色の布にただ麦の穂が一本、縫い取られただけの、粗末な旗。灰の同盟の、新しい、旗だという。


「……旗頭、やります」


少年は、声を震わせて言った。


「五年。……五年、やります。ヴァンネスさんの、言った通り。三十の隊をまとめようとしないで。五人ずつ、一つずつ」


「上等だ」ヴァンネスは、笑って少年の頭を乱暴に掻き回した。「五年経ったら、帰ってきて点検してやる。……そのとき、規約の三つ目が飾りになってたら。……俺は、おまえを殴るぞ」


「殴ってください」


ピノは、まっすぐ、答えた。


ヴァンネスの、笑い皺が少しだけ、深くなった。


◇


ザッハがいた。


肩にまだ、包帯を巻いたまま。商会の紋の、入った外套を脱いで平服で立っていた。


「……専属を辞めた」


男は、ぶっきらぼうに言った。


「あの晩餐の、話は聞いた。当主が四十七人の子供を、金で買うと、あんたに持ちかけたと。……それを聞いて決めた。三十年、商会の飯を食ってきたが限界だ」


「これから、どうする」


「同盟に入る。……ピノの、下でな」ザッハは、苦笑した。「銀級が灰級の下につく。笑えるだろ。……だがあの坊主の旗の方が、俺の、盾を置くのに相応しい」


男は、右手を差し出した。


崩落の底で俺が突き飛ばして助けた男。詮議で立場を賭けて証言した男。二度、警告をくれた男。


「借りは、返した」ザッハは、言った。「これで貸し借りなしだ。……だから、次に会うときは」


「ああ」


「――ただの、冒険者同士で」


俺は、その手を握った。


◇


そして、審問局からは、誰も来なかった。


ただ、街を出る、その街道の最初の曲がり角。木立の陰に灰色の外套が一人、立っているのが見えた。


見えただけだった。


女は、こちらを見ることもなく。手も振らず。


ただ、俺たちの馬車が通り過ぎるのを確かめてから。


静かに街の方へ、歩き去っていった。


記録しない、と、決めた者の見送り方だった。


◇


荷馬車が丘を越える。


ヴェルデの、灰色の城壁が遠ざかっていく。灰の大穴が街の中心で口を開けている。二年間、俺が潜り続けた、あの穴。


俺は、荷台から、それを見ていた。


隣にニラが座っていた。


彼女は、受付の制服ではなかった。旅装の簡素な外套。膝の上に二冊の手帳と、封筒を乗せて。


その、封筒の中身を俺は、知っていた。三通のうちの、一通。商会と、ギルドと、教会の悪事の記録。残る二通はヴァンネスの帳面と一緒に、そして誰も知らない場所に、置いてきた。


「……いいのか」と、俺は訊いた。「ギルドを辞めて」


「もう、三回目だよその質問」


ニラは、笑った。


「三回とも、同じ答え。……いいの。私の仕事は、窓口じゃなくて記録だから。記録は、どこででもできる」


彼女は、手帳を開いた。


旅の、最初の頁。


『第一日。ヴェルデを発つ。晴れ。オルガ婆さんの干し芋。ピノくんの旗。ザッハさんの右手。……リゲル、街を長いこと見ていた』


それから、彼女は、俺を見た。


「ねえ、リゲル。この街のこと、忘れないでね」


「……努力する」


「うん。それでいい」


ニラは、頷いてペンを置いた。


「もし忘れても。ここに書いてあるから」


◇


城壁が地平の向こうに沈もうとしていた。


その、最後の瞬間に。


俺は、あることに気づいた。


二年前。この街に入ってきたとき。


俺は、何を持っていた。


短刀が一本。狩人の、五年。じいさんの、教え。母の顔。父の背中。村の冬。初めて狼を仕留めた夜。そして――隣の、この人との、全部の思い出。


今、俺が持っているのは。


短刀と、長剣。継いだ、死者たちの、技。隊の、六人。街の、記録。夜ごと、唱える名前の、名簿。


そして、この人が書いてくれた、俺の二年分の記録。


失ったものと、得たものが。


天秤の、どちら側に重いのかは。


分からなかった。


だが、一つだけ、確かなことがあった。


二年前、この門をくぐったとき。俺の隣には、この人がいた。


今、この門を出るときも。


この人は、隣にいる。


それだけは。


何一つ、変わっていなかった。


荷馬車が丘を下る。


ヴェルデが視界から、消えた。


更新遅れました!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。