第87話「発つ日」
出立の朝は、よく晴れていた。
春の終わり。夏の匂いが風に混じり始めていた。二年前、俺とニラがこの街の門をくぐった日と、同じ季節だった。
荷馬車は、二台。
一台に荷と、旅の支度。もう一台に人。行商の巡礼団に紛れ込む形でリディアへ向かう。ヴァンネスの、同盟の伝手だった。
見送りは、来ないはずだった。
目立つ旅で、ない。教会の本拠地へ、忍び込む旅だ。静かに出るはずだった。
だが、南門の前には人がいた。
◇
まずオルガ婆がいた。
古着の玉座から、わざわざ、出てきたらしい。煙管を咥えたまま、俺たちを値踏みしてそれから、ぶっきらぼうに包みを押しつけてきた。
「干し芋だよ。……道中、腹が減るだろ」
「婆さん」
「勘違いするんじゃないよ」煙管が、俺の胸を突いた。「餞別じゃない。前払いだ。……あんたら、いつか、この街に帰ってくるだろう。そのとき、耳を揃えて返しな。恩ってのは、そういう風に回すもんだ」
帰ってくる前提の、押しつけだった。
婆の後ろには、スラムの、子供たちがいた。コッツが串を奢った、あの子たち。誰も、何も、言わずにただコッツの袖を掴んでは、離した。
コッツは、洟を啜って一人ずつ、頭を撫でた。
「……行ってくらぁ。留守は、頼んだぞ。おれの、目を貸してやったろ。使えよ、ちゃんと」
その、子供たちの、後ろに。
井戸端の、婆さんたちがいた。
ガロが二月、桶を引いてやった、あの人たちだ。誰かがガロに水筒を押しつけた。誰かがその、盾を持たない右腕を、両手で包んだ。
「……あんた、帰ってくるんだろうね」
「……ああ」ガロの、声が震えた。「帰る。……井戸の番は、まだ俺の、仕事だ」
「なら、いい」
婆さんたちは、それ以上、何も言わなかった。裏切りの醜聞も、盾を手放した理由も、この人たちは、たぶん全部知っている。知った上で二月分の、桶の重さでこの男を量り直した。
恩を金より、長く覚える界隈だった。
◇
青麦の、五人がいた。
ピノが真新しい、旗を持っていた。灰色の布にただ麦の穂が一本、縫い取られただけの、粗末な旗。灰の同盟の、新しい、旗だという。
「……旗頭、やります」
少年は、声を震わせて言った。
「五年。……五年、やります。ヴァンネスさんの、言った通り。三十の隊をまとめようとしないで。五人ずつ、一つずつ」
「上等だ」ヴァンネスは、笑って少年の頭を乱暴に掻き回した。「五年経ったら、帰ってきて点検してやる。……そのとき、規約の三つ目が飾りになってたら。……俺は、おまえを殴るぞ」
「殴ってください」
ピノは、まっすぐ、答えた。
ヴァンネスの、笑い皺が少しだけ、深くなった。
◇
ザッハがいた。
肩にまだ、包帯を巻いたまま。商会の紋の、入った外套を脱いで平服で立っていた。
「……専属を辞めた」
男は、ぶっきらぼうに言った。
「あの晩餐の、話は聞いた。当主が四十七人の子供を、金で買うと、あんたに持ちかけたと。……それを聞いて決めた。三十年、商会の飯を食ってきたが限界だ」
「これから、どうする」
「同盟に入る。……ピノの、下でな」ザッハは、苦笑した。「銀級が灰級の下につく。笑えるだろ。……だがあの坊主の旗の方が、俺の、盾を置くのに相応しい」
男は、右手を差し出した。
崩落の底で俺が突き飛ばして助けた男。詮議で立場を賭けて証言した男。二度、警告をくれた男。
「借りは、返した」ザッハは、言った。「これで貸し借りなしだ。……だから、次に会うときは」
「ああ」
「――ただの、冒険者同士で」
俺は、その手を握った。
◇
そして、審問局からは、誰も来なかった。
ただ、街を出る、その街道の最初の曲がり角。木立の陰に灰色の外套が一人、立っているのが見えた。
見えただけだった。
女は、こちらを見ることもなく。手も振らず。
ただ、俺たちの馬車が通り過ぎるのを確かめてから。
静かに街の方へ、歩き去っていった。
記録しない、と、決めた者の見送り方だった。
◇
荷馬車が丘を越える。
ヴェルデの、灰色の城壁が遠ざかっていく。灰の大穴が街の中心で口を開けている。二年間、俺が潜り続けた、あの穴。
俺は、荷台から、それを見ていた。
隣にニラが座っていた。
彼女は、受付の制服ではなかった。旅装の簡素な外套。膝の上に二冊の手帳と、封筒を乗せて。
その、封筒の中身を俺は、知っていた。三通のうちの、一通。商会と、ギルドと、教会の悪事の記録。残る二通はヴァンネスの帳面と一緒に、そして誰も知らない場所に、置いてきた。
「……いいのか」と、俺は訊いた。「ギルドを辞めて」
「もう、三回目だよその質問」
ニラは、笑った。
「三回とも、同じ答え。……いいの。私の仕事は、窓口じゃなくて記録だから。記録は、どこででもできる」
彼女は、手帳を開いた。
旅の、最初の頁。
『第一日。ヴェルデを発つ。晴れ。オルガ婆さんの干し芋。ピノくんの旗。ザッハさんの右手。……リゲル、街を長いこと見ていた』
それから、彼女は、俺を見た。
「ねえ、リゲル。この街のこと、忘れないでね」
「……努力する」
「うん。それでいい」
ニラは、頷いてペンを置いた。
「もし忘れても。ここに書いてあるから」
◇
城壁が地平の向こうに沈もうとしていた。
その、最後の瞬間に。
俺は、あることに気づいた。
二年前。この街に入ってきたとき。
俺は、何を持っていた。
短刀が一本。狩人の、五年。じいさんの、教え。母の顔。父の背中。村の冬。初めて狼を仕留めた夜。そして――隣の、この人との、全部の思い出。
今、俺が持っているのは。
短刀と、長剣。継いだ、死者たちの、技。隊の、六人。街の、記録。夜ごと、唱える名前の、名簿。
そして、この人が書いてくれた、俺の二年分の記録。
失ったものと、得たものが。
天秤の、どちら側に重いのかは。
分からなかった。
だが、一つだけ、確かなことがあった。
二年前、この門をくぐったとき。俺の隣には、この人がいた。
今、この門を出るときも。
この人は、隣にいる。
それだけは。
何一つ、変わっていなかった。
荷馬車が丘を下る。
ヴェルデが視界から、消えた。
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