第86話「記録者の選択」
出立の前日。
ヴェイユが俺を呼び出した。
場所は、審問局の支部ではなかった。大穴の、入り口。決戦の日、盾の列が並んだあの広間だった。
誰もいなかった。
灰色の外套の女が、一人。壁の、焼け焦げた跡に指を当てて立っていた。
「――ここで三十一人が死にました」
挨拶も、なく彼女は言った。
「うち、七人が審問局の人間です。私が連れてきた、部下たち。……教会は、彼らを殉教者として記録します。星辰の獣に立ち向かった、聖務の犠牲者として」
女は、振り返った。
「事実です。嘘は一つもありません。……ですがこうも書ける。『審問官七名、〈鉄樹〉の狩人の指揮のもと、独立系冒険者および商会専属隊と、同一の隊列にて戦死』。……これも、事実です」
記録は、嘘の味方はしない。だが、書き方は選べる。
ニラの言葉だった。
「どちらを書くつもりだ」
「まだ、決めていません」
ヴェイユは、静かに言った。
◇
「本題に入りましょう」
女は外套の内から、一冊の、帳面を出した。
分厚い。表紙に俺の名前が書いてあった。
「あなたの、記録です。ヴェルデ着任以来、私が集め、書き溜めたもの。……適性検査の測定不能。討伐記録。得物の変更。証言。あなたの、言葉の選び方。表情。……全部ここに」
女は、その帳面を掌の上で軽く、弾ませた。
「結論から、言いましょう。この記録は、あなたを〈星喰らい〉として、審問にかけるに十分です」
俺は、動かなかった。
動けば、それも記録される。
「十分では、ありますが決定的では、ない。あと一つ足りません。……『継承の瞬間の、目撃』。誰かがあなたが力を継ぐところを、見て証言する。それがあれば、私は明日にでもあなたをリディアへ、送れる」
「……ないんだな。それが」
「ええ。ありません」
ヴェイユは、頷いた。
「〈鉄樹〉の隊員は、誰も証言しない。商会のザッハは、口を噤む。街の人々は恩人を売らない。……そしてギルドの記録は、驚くほど慎重に書かれている。あなたの功績は、常に隊の功績。特記事項なし。……美しい防壁でした。二年半、綻び一つない」
女は、微かに笑った。
「あの、受付嬢は。……たいした、記録者です」
「……ニラは関係ない」
「関係、大ありです」
ヴェイユの、声が少しだけ、鋭くなった。
「あの人は、二年半審問局の網の目を、たった一人で素手で編み直し続けた。……令状も、組織も、後ろ盾もなしに。……私があの人を逮捕しなかった理由を、聞きたいですか」
「……聞こう」
「――負けたからです」
女は、まっすぐに言った。
「私は、あの人の記録に負けたのです。私の記録は、あなたを狩るためのもの。あの人の記録は、あなたを残すためのもの。……同じ紙、同じ墨、同じ几帳面さ。それなのにあの人の記録の前に、私の記録を置くと」
ヴェイユは、自分の、分厚い帳面を見下ろした。
「……こちらが薄汚れて見えるのです」
◇
女は、しばらく黙っていた。
それから、大穴の、暗い口を覗き込んで言った。
「私は、二十二年審問官をしています。……〈星喰らい〉を、十一人、審問にかけました。うち、九人が処断されました」
「……残り、二人は」
「一人は、証拠不十分で放免。……もう一人は」
女は、そこで言葉を切った。
切ってそれから、続けた。
「十四のとき、リディアで護送を見ました。私は、まだ、見習いで。……その男は、鎖に繋がれて歩きながら、司祭に何かを訊き続けていた。『名前は、名簿に残りますか』と。自分の名前ではなく。自分が喰ったとされる、三人の名前を」
俺の背筋が凍った。
ミレアが見たのと、同じ光景だった。
同じ日に。同じ場所で。
十四歳の、二人の少女がそれぞれの立場で、同じ男を見ていた。
「私は、その男を記録しました」ヴェイユは言った。「見習いの身で。誰にも、命じられず。……その男が何を訊いたか。三人の、名前をどれほど、正確に覚えていたか。全部、書きました。そして、上に提出した」
「……どうなった」
「握り潰されました。処断は、予定通り。記録は封緘」
女の、指が壁の焦げ跡をなぞった。
「私が審問官になった理由は、それです。……内側に入れば、記録を封緘されずに済む。そう、思った。二十二年、そう思って書いてきた」
そして、彼女は、俺を見た。
「――そして今、私はあなたを狩るための、完璧な記録を書き上げている」
◇
ヴェイユは、帳面を両手で持った。
それから、それを大穴の口へ、放り投げた。
分厚い帳面が闇に落ちていく音は、しなかった。ただ、暗がりがそれを飲み込んだ。
「……なぜ」
「分かりません」
女は、二度目の、同じ答えを言った。
「記録者として失格です。二十二年分の失格です。……ただ」
灰色の外套が翻った。
「あなたは、あの日、核を断ちました。継げば、大陸最強の器になれた。それを断った。……理由を訊いたとき、あなたは『継ぎたくなかった』と、言った」
女は、初めてはっきりと笑った。
「その一言を私は、記録しませんでした。……記録すれば、それは、あなたが星継を認めた証拠になる。証拠になってしまう」
だから、書かなかった。
二十二年、書き続けた女が。
初めて書かないことを選んだ。
「リディアへ、行くのでしょう」ヴェイユは、言った。「〈星の間〉へ。……四十七人を連れ出しに」
俺は、答えなかった。
「答えなくて結構。……ただ、一つ。〈星の間〉の、警備は、月の二十七日に薄くなります。大聖堂の、聖務の日。聖騎士が儀式に動員されるため」
それは。
それは、審問官が決して口にしてはならない、情報だった。
「……なぜ、俺にそれを」
「これも、記録しません」
ヴェイユは、背を向けた。
「私は、二十二年、記録し続けました。……そしてたった今、二つのことを記録しないと、決めた。あなたの言葉と、私の、この言葉を。……記録しないことを、選ぶのは記録するよりずっと、勇気が要りますね」
灰色の背中が大穴の入り口から、遠ざかっていく。
その背中に俺は、訊いた。
「あんたは、これからどうする」
女は、足を止めた。
止めて振り返らずに言った。
「……審問官を続けます。内側で。……封緘された記録の、封をいつか解くために」
それだけ、言って。
静かな狩人は、去っていった。
狩る者から、狩らない者になるために。
それはたった一つの、記録しない選択で、二十二年を裏切る覚悟だった。




