第85話「注ぐ商人」
出立の三日前。
白亜の館から、使いが来た。
『当主グレム・バルドー、旅立ちの前に一献、差し上げたく』
上等な、雪見紙。あの、招待状と同じ紙だった。
「行くな」と、ガロが言った。「今度こそ、罠だ」
「行く」と、俺は答えた。
断る理由はなかった。むしろ、俺の方に確かめたいことが、あった。あの老人がなぜ、二年も、俺を「回収」しようとし続けたのか。教会と、同じ言葉で器を語る、その理由を。
リディアへ、旅立つ前に。
一つ、答え合わせをしておきたかった。
◇
晩餐の間は、二年前と、寸分変わらなかった。
磨かれた大理石。南国の果実。香木の煙。上座の柔和な好々爺。
グレム・バルドーは、俺を見て心底、嬉しそうに笑った。
「おお、来てくれたか。……リゲル君。いや、〈鉄樹〉の、隊長代行殿。街を救ってくれてありがとう。老いぼれの商人からも、礼を言わせてほしい」
「礼なら、死んだ三十一人に、言ってくれ」
「言ったとも」老人は、あっさり、頷いた。「遺族への見舞金は当会から、全額出した。名前も、全員、控えてある。……名前は、大事だからね」
名前は、大事。
その言葉をこの男の口から、聞くのは不快だった。
◇
食事は、進まなかった。俺が手をつけなかったからだ。
グレムは、気にする様子もなく、葡萄酒を傾けた。
「用件を言おう」老人は、言った。「最後にもう一度だけ、誘いに来た。……専属にならんかね」
「断る」
「即答だな」老人は、笑った。「では、条件を聞かず断ったことになる。……こう言っても?」
グレムは、指を一本立てた。
「〈星の間〉の、四十七人。……全員、当会が買い取ろう」
俺の、動きが止まった。
「教会は、金で動く。おかしいかね。神を扱う商売こそ、一番、金で動くものだ。……当会には、四十七人分の、寄進を積む力がある。子供らは解放され、大陸のどこへでも、送り届けられる。あなたの、仲間の妹御も、無論含めてね」
息を呑む音が俺の背後でした。同席していた、ミレアのものだった。
静かな囁きだった。二年前と同じ。この老人は脅さない。値切らない。ただ、こちらの一番欲しいものを正確に卓の上に置く。
「……見返りは」と、俺は訊いた。
「あなたが当会の、専属になる。それだけだ」
「それだけ、か」
「それだけだよ」
グレムは、微笑んだ。
そして、その微笑みのまま、こう続けた。
「――ただし契約期間は、あなたの生涯」
生涯。
「あなたには、当会の依頼で深層に潜ってもらう。大陸中の、迷宮に。強いものを狩ってもらう。……その、たびに」
老人の、目が初めて光った。
商人の目でも、好々爺の目でもない。
職人の目だった。長年追い求めた素材を、前にした職人の。
「……その、たびに。あなたは力を注がれる。そうだろう?」
部屋が凍った。
知っている。
この男は、星継を知っている。
「なぜ」と、俺は、掠れた声で言った。「なぜ、知ってる」
「知らんよ」グレムは、あっさりと首を振った。「仕組みは、何も。……ただ、わしは商人だ。商人は、目利きだ。二年、あなたを見てきた。星無しの器が階層主を狩る。狩るたびに体が変わる。得物が変わる。強くなる。……それを見て何も、思わん商人がどこにいる」
目利き。
この男は、星継の仕組みを知らない。ベテルのように内側から、知っているのではない。
ただ、外から二年観察して。
「この器は、注げば注ぐほど、価値が上がる」ということだけを、正確に見抜いた。
「わしは、注ぐ商人だ」グレムは、言った。「空の器を見つけては、注ぐ。金を。薬を。仕事を。……あの盾使いの右腕にも、注いだろう? あれは、良い注ぎ物だった。彼はあれで動くようになり、動くようになった分だけ、こちらの言うことを聞くようになった」
ガロの、拳が卓の下で握られる音がした。
「教会も、同じことをしておる」老人は、続けた。「あちらは澱を注ぐ。子供らに。……方法が違うだけだ。わしは金を注ぎ、教会は、力を注ぐ。……そしてあなたの、村の老師は」
心臓が跳ねた。
「――記憶を注いでおるのだろうな」
グレムは、微笑んだ。
何気なく。世間話のように。
「なぜ、じいさんを知ってる」
「知らんよ。何も」老人は、また、首を振った。「ただ、二年前、あなたに器の話をしたとき。あなたは、妙な顔をした。まるで、同じ話を別の誰かから聞いたことがある、という顔だ。……以来、気になっておってな。あなたに器の話をする人間が他にもいる。誰だ、と。……あなたが大事そうに油紙に包んで持ち歩いている、あの手紙の、差出人かね?」
見られていた。
二年、この男に。俺の、顔色を荷物を癖を。
何もかも。
「わしは、目利きだ」
グレムは、繰り返した。
「注ぐ者は、注ぐ者を見分ける。……気をつけなさい、リゲル君。あなたに一番、たくさんの、いいものを注いでいる者が。あなたを一番、深く所有している」
◇
俺は、立ち上がった。
「――断る」
「四十七人の、命を捨てるのかね」
「捨てない。俺たちが取り戻す。……あんたの、金じゃなく」
「愚かな」グレムは、心底、残念そうに首を振った。「金で済むことを。人の命は、金で買えるのに」
「買える」と、俺は言った。
老人が片眉を上げた。
「買えるさ。……でも、買った命は、あんたのものになる。四十七人があんたに借りを作る。ガロが薬に借りを作ったように。……そうやってあんたは、人を器にする」
俺は卓の葡萄酒に一度も、手をつけないまま、扉へ歩いた。
扉の前で振り返って言った。
「グレム・バルドー。一つ、教えといてやる。……空の器は、何でも注げる器じゃない」
老人が初めて怪訝な顔をした。
「――何を注ぐかを選べる器だ」
空だから、選べる。
満ちた器はもう選べない。あんたも、教会も、じいさんも、それを忘れている。
器を器としてしか、見ていないから。
「……俺は、自分の器に何を入れるか、自分で決める」
扉を閉めた。
閉める、その一瞬。
老人の、柔和な顔から、表情が抜け落ちるのが見えた。
その顔は――怒りでも、失望でもなかった。
純粋な渇望だった。
二年、追い求めた素材が、自分の手の中で初めて自分の意思を示した。それを見た、職人の渇き。
その顔が扉の隙間から消えるまで。
俺は、目を逸らさなかった。




