第84話「灰の同盟へ」
出立の支度に、十日をかけた。
だが、その十日の大半は、旅の荷を詰めることではなかった。
街に残していくものを、決めることだった。
◇
灰の同盟の、集会は、あの東区の穀物倉で開かれた。
スピカ戦の後だ。集まった隊の数は、結成のときの、倍を超えていた。組合の傘の下にいた独立系が、雪崩を打って同盟へ、移ってきた。理由は単純だった。決戦の日、大穴の出口で盾を並べて死んだ男たちの、半分が同盟の人間だったからだ。
その、倉の樽の上に。
ヴァンネスが立った。
「――俺は、旗頭を降りる」
倉が静まり返った。
「リディアへ行く。〈鉄樹〉と一緒にな。……理由は、言えねえ。だが、行かなきゃならねえ」
ざわめきが広がった。旗頭が去る。スピカを退けたばかりの、この街から。
「――だから、次の旗頭を決める」
老兵は、集まった顔をぐるりと、見渡した。
「言っとくが俺は、旗頭に向いてなかった。俺は、古株で顔が広くて口が回るだけの、爺だ。……同盟に本当に必要なのは、そういう奴じゃねえ」
ヴァンネスの、視線が倉の後ろの方で止まった。
「〈青麦〉のピノ。前へ出な」
倉中の、視線が一斉にそこへ集まった。
そばかすの、少年が飛び上がるほど、驚いた顔をしてそれから真っ赤になって後ずさった。
「お俺!? 冗談じゃねえよ! 灰級だぜ、うちは! 結成一年で、二回全滅しかけて――」
「そうだ。おまえは弱い」ヴァンネスは、あっさり、頷いた。「弱いから、いいんだ」
老兵は、樽の上から静かに続けた。
「同盟の、規約の三つ目を覚えてるか。……『飢える新人を、出さない』。この規約を一番、身に沁みて分かってるのは、誰だ。入穴料が倍になって、松明の油が買えなくなって、それでも潜るしかなかったあの日のおまえだろうが」
ピノの顔から、赤みが引いていった。
「強い奴は、忘れる」ヴァンネスは言った。「自分が弱かった日を。忘れた奴が旗を持つと、規約は飾りになる。……だがな、坊主。おまえは忘れねえ。忘れられねえ。……その、忘れられなさが旗頭の、資格だ」
忘れられなさが資格。
その言葉に俺は、胸を突かれた。
忘れていく男には、決して持てない資格だった。
集会の、帰り道。コッツが俺の、横でぽつりと言った。
「……爺さん、たぶん兄貴のことも、考えてたぜ。あの言葉」
「え?」
「『強い奴は、自分が弱かった日を忘れる』ってやつ。……あれ、旗頭の話でもあるけど、兄貴の話でもある」
少年は、足元の石を蹴った。
「兄貴は忘れる。星無しって嗤われた日も、飯が食えなかった日も、そのうち、消えるかもしれねえ。……でも、忘れても、兄貴は弱かった奴の側に、立ち続けてるじゃねえか。スラムの井戸番も、青麦の稽古も、四十七人のガキも。……なんでだと思う?」
俺は、答えられなかった。
「体が覚えてんだよ」
コッツは、あっさり言った。
「記憶は、消えても。どっちに立つかは消えねえ。……だから、兄貴は大丈夫だ。おれはそう思ってる」
どっちに立つか。
それは記憶ではなく、たぶんもっと、深い場所に刻まれるものだった。器の底のそのまた底に。
◇
その夜、ピノが俺のところへ来た。
「……リゲルさん。おれ、できません」
少年は、青い顔で言った。
「三十の隊をまとめるなんて。……おれ、いまだに地図の読み方だって、あやふやで。演説だってできねえ。……無理だ」
「俺も、無理だと思う」と、俺は答えた。
ピノが傷ついた顔をした。
「今のおまえには、無理だ。三十の隊はまとめられない。……だが灰級の五人は、まとめられるだろう。おまえは、それを一年やってきた」
「……それは、まあ」
「なら、そこから始めろ。三十の隊をまとめようとするな。三十の、灰級の五人を一つずつ、まとめろ。……それを五年、やれ」
ピノは、しばらく、黙っていた。
「……五年」
「俺がじいさんに狩りを教わったのも、五年だ」
その言葉を言った瞬間。俺の口の中に苦いものが広がった。
じいさん。俺を器として育てた男。
だが――その男から、俺が教わったものは。
罠の張り方。風の読み方。獲物への、礼儀。仲間の背中の、見方。
それは、本物だったのか。全部が調教の、道具だったのか。
分からない。分からないまま、俺は、その教えをコッツに渡しコッツがピノに渡している。
毒の入った、器から汲んだ水を。
それでも、その水で育つものがある。
「……ピノ」と、俺は、言った。「一つ、教える。俺が五年かけて教わったことの、一番、大事なやつだ」
少年が顔を上げた。
「――教わったものは、次に回せ。それだけだ。おまえが誰から、何を教わったにしても。その先で誰に渡すかは、おまえが決められる」
誰から、教わったかは選べない。
だが、誰に渡すかは選べる。
それが二年かけて俺がじいさんの手紙から、やっと、掴んだたった一つの自分の答えだった。
◇
引き継ぎは、他にもあった。
コッツが青麦の五人と、スラムの子供たちに罠と、索敵と、逃げ道の数え方を叩き込んだ。「おれがいない間、この街の目はおまえらだ」と。
ミレアが青麦の治療係の娘に、薬草と、順番の決め方を書き残した。三十枚の覚え書き。「値段は、自分で決めなさい。誰かに決められた順番で、人を治すのは二度と御免だから」
ガロは――砕けた盾を、集会所に置いていった。
「使えねえ盾だ」と、大男は言った。「だが、置いておく。……いつか、誰かがこの盾を見て『こんなに壊れてもまだ立ってた奴がいたのか』って、思うかもしれねえ。それだけでいい」
名前は、残る。
遺品にも。記録にも。教えにも。
俺たちがこの街を去った後にも。
◇
そして、俺は。
俺は最後にギルドの、封緘書庫へ、行った。
ニラの、案内で。
そこには、二年分の〈鉄樹〉の、記録があった。討伐記録。報告書。裁定の写し。ニラが書き続けた、几帳面な、字の束。
「持っていくの?」とニラが、訊いた。
「いや」
俺は、首を振った。
「残していく。……この街に。俺が何を狩って何を失って誰と、生きたか。全部、ここに書いてある。……俺が忘れても。この街が覚えててくれる」
記録は、命より長く残る。
俺がいつか、この二年を丸ごと、忘れる日が来ても。
ヴェルデという街が、灰の大穴がこの書庫の紙の束が。
覚えていてくれる。
「……ニラ」
「うん」
「あんたの書いた記録が、俺の二年間だ。……ありがとう」
ニラは、返事をしなかった。
ただ、書庫の埃の中でしばらく、俯いていた。
俯いたまま、小さく、笑ったのが肩の震え方で分かった。




