第83話(幕間)「辞表を書いた日」
※本話は、元・受付嬢アルニラムの視点でお送りします。
◇
辞表は、あの日の、夜のうちに書いた。
リゲルが私を忘れた日。
治療院を出て寮に帰って扉を閉めてそれから、私は一時間、泣いた。声を上げて。枕に顔を埋めて。みっともなく。
泣き終わって顔を洗って机に向かって辞表を書いた。
順番が逆だと、思う人もいるかもしれない。
でも、私は、こういう人間なのだ。泣くだけ泣いたら、次にやるべきことを書き出さないと、落ち着かない。悲しみを業務に変換してしまう。ずるい癖だと、自分でも思う。
『退職願。受付職員アルニラム。理由:一身上の都合』
一身上の都合。
便利な言葉。この文字の中に、私は、何を押し込めたんだろう。
好きな人が、私を好きだったきっかけの記憶だけを、失くしました。
だから、その人の隣に行きます。
……そんなこと、書けるわけがない。だからこの文字。この仕事で私が何百回も、他人の書類に書いてきた、文字。
みんな、こうやって文字の中に人生を押し込めてきたんだ。
私は、今日、初めてその文字を自分のために使った。
◇
でも、すぐには出さなかった。
出せなかった。
二年半。私はこの窓口にいた。
リゲルが初めて登録に来た日から、ずっと。彼が灰級の板を渡された日。初めての賞金を受け取った日。眷属級の、報告書を持ってきた日。ガロさんが隊を抜けた日。三十一人の、死者の名簿を書いた日。
全部、この窓口で見てきた。
私は、この街の、記録係だった。
大穴に潜る人たちの、名前を書く。帰ってきた人の、無事を書く。帰ってこなかった人の、遺族に通知を書く。
誰かがやらなきゃ、ならない仕事だ。
それを私は辞める。
一人の男の、消えた記憶を埋め直すために。
……身勝手だ。
分かってる。
でも、リゲルは、あの祈りを読んだ。「私のことは一番最後にしてください」って、あの、身勝手な祈りを。読んで彼は私を責めなかった。
だから、もういい。
私は、身勝手な人間として、生きる。世界で一番、大事な人の隣で。
◇
辞表を封筒に入れて。
私は、それを机の引き出しにしまった。
まだ、出さない。
リゲルがリディアに行くと、言い出すまで。
きっと、言い出す。教会が空の器を集めているなら。四十七人の子供がいるなら。ミレアさんの妹が、そこにいるなら。あの人は絶対に行く。
そして、絶対に私を置いていこうとする。
だって、あの人はそういう人だから。
記憶を失っても。私を大事だと感じる心を失っても。それでも、あの人の頭は「この人は大事なはずだ、だから守らなきゃ」って、正しく計算する。
……それがたまらなく、切ない。
心が抜けても、優しさだけが残っている。優しさの形をした、抜け殻が私を遠ざけようとする。
だから、辞表は、引き出しの中で待っていた。
あの人が「残ってくれ」と、言うその日まで。
◇
待っている間に、私は書き続けた。
それと、もう一つ。
辞表を出す前の日。窓口にヴェイユさんが来た。
スピカ戦の、後始末で審問局も、忙しいはずだった。それなのにあの人は、一人で私の窓口の前に立った。
「……お辞めになるそうですね」
まだ、誰にも言っていないのに。
この人は、いつもこうだ。記録し観察し答えが出るまで待っている。
「街の、記録係がいなくなる」ヴェイユさんは、静かに言った。「惜しいこと、です。あなたの書いた記録は、正確で公平で……そして、誰かを庇っていた」
私の、心臓が跳ねた。
「気づいていましたよ。特記事項なしと、あなたが書くたびに。……私は、それを証拠にしませんでした」
「……なぜ」
「分かりません」
あの人は、少し困ったような顔を、した。初めて見る表情だった。
「記録者として失格ですね。……記録は、色を持たないはずなのに。あなたの書いたものだけは、なぜか、色があった。それを証拠として切り取ることがどうしても、できなかった」
それだけ言って、ヴェイユさんは、帰っていった。
私は、その背中に頭を下げた。深く。
似ていない、と、思っていた。
でも、たぶん私たちは、似ていて。
だからこそ、あの人は、最後の一線でペンを置いたのだ。
◇
リゲルの、一冊目の手帳。
埋め直しの記録。
『第一回。初めて会った日。反応:他人の話として聞いた』
『第三回。村を出た日の話。反応:なし』
『第七回。星祭りの夜、「似合ってる」の場面。胸の疼きを自覚。届いた』
『第十二回。焼き林檎の話。反応:わずかに眉が動く』
『第十五回。丘の話。反応:なし。……こちらが泣きそうになる』
一つずつ。
記録を取りながら、分かってきたことがある。
リゲルの中で届く話と、届かない話がある。
届くのは――彼が、「自分がどうしたか」を、覚えている話。「似合ってる」と言った、その言葉。焼き林檎を受け取った、その手。
届かないのは――「私が、何を思っていたか」の話。私が緊張していたこと。私が丘で何を願っていたか。
つまり。
消えたのは、私の心じゃない。
リゲルの心だ。
私がリゲルをどう見ていたか。リゲルが私をどう見ていたか。その、リゲル側の、まなざしだけが抜け落ちている。
だから、彼は、私を覚えている。
私を見ていた自分を覚えていない。
……ひどい。
神様は、ずいぶん、器用な削り方をする。
◇
でも。
でも、と、私は書きながら思う。
疼く、ってリゲルは言った。
胸の深いところが。名前も、理由も、思い出せないのに。焼き林檎を食べて、泣いたとも。
それってつまり。
抜けたのは、まなざしだけで。
その、まなざしの、下にあったものは。
まだ、あるってことじゃ、ないの?
器の底の、そのまた底。手の届かない場所に沈んで。
だとしたら、私の仕事は簡単だ。
掬い上げるんじゃない。
上から、注ぐんだ。
毎日、毎日、話して聞かせて。彼が私を見ていたときの、まなざしを。私が覚えている限りの、全部を。注いで注いで注ぎ続ければ。
いつか底に沈んだものと、上から注いだものが、水位のどこかで出会う。
そのとき、リゲルはもう一度。
……そう信じて、私は書いている。
空の器にだけは、何でも注げると、あの商人は言ったらしい。
上等だ。
なら、悪いものが注がれる前に。
私が先に注ぎきってやる。
◇
その日は、思ったより、早く来た。
塩汁の夜。鉄樹が六人に戻った夜。リゲルが私を呼び止めて言った。
「あんたは、ここに残ってくれ」
ああ、来た、と思った。
予想通りの言葉だった。予想通りに優しくて予想通りに、理屈で予想通りに私を傷つけた。
だから、私は引き出しの、封筒を出した。
スピカ戦の、翌日の日付が入った辞表を。
リゲルの顔が変わった。日付を見て。
私は少しだけ意地悪な気持ちで、そのときの彼の顔を、覚えておくことにした。手帳には書かない。
これは、私だけの記録。
『第二十四回。「連れてって」と言った。リゲル、言葉を失う。……勝った』
……やっぱり、書いてしまった。
私は、こういう人間だ。
記録しないと、生きていけない。
だって、記録した分だけ。
忘れないでいられるから。
忘れないでいる限り。
私は、まだあの人と、二人分の記憶を持っていられるから。




