第82話「鉄樹、ふたたび」
リディアへ、行く。
それを決めた翌日。俺たちは、隊の卓を囲んだ。
三人の、〈鉄樹〉。そこにリディアから帰ったミレアと、ヴァンネスが加わって五人。
だが、卓には、六つ目の椅子があった。
空席の椅子が。
「――ガロを呼ぼう」
そう言ったのは、コッツだった。
「リディアだぜ。教会の、本拠地だ。四十七人の子供を、盗み出すんだ。……盾が要る。それも街で一番の盾がよ」
「受注資格の停止は、まだ一年残ってる」とミレア。
「なら、依頼にしなきゃいい」とコッツは、あっさり言った。「うちが勝手にリディアに行く。ついでに井戸番の旦那が勝手に旅に出る。……偶然、同じ道を歩いてただけだろ」
屁理屈だった。
だが、悪くない屁理屈だった。
◇
井戸端に五人で行った。
ガロは、いつものように桶を引いていた。俺たちを見て目を見開いた。それから、警戒するように後ずさった。
「……なんだ、揃いも揃って」
「隊の、卓についてほしい」と、俺は言った。
大男の、動きが止まった。
「……何を言ってる」
「席は空けてある。ずっと」
「リゲル。俺は、隊を売った男だ」
「知ってる」
「盾を向ける資格がねえって言ったろうが」
「聞いた」
俺は、一歩、前に出た。
「だから、スピカのときは、街の後ろに立ってもらった。あんたは、それをやり遂げた。……今度は、俺たちの、後ろじゃない。前でもない。……隣に立ってほしい」
隣に。
「リディアに行く」とミレアが、言った。「妹を取り戻しに。四十七人の、子供がそこにいる。……盾使いがいないの。あんたの、代わりが」
「教会が相手だ」とヴァンネスが、笑った。「勝ち目なんざねえ。楽しいだろ?」
「旦那の、塩汁が食いてえんだよ」とコッツが、そっぽを向いて言った。「濃いやつが」
ガロは、桶を握ったまま、立ち尽くしていた。
その、大きな手が震えていた。
「……俺は」
声が詰まった。
「俺は、まだ盾の向きを――」
「間違えてない」
俺は、遮った。
「あんたは、あの日、矢の雨の中で盾の向きを直した。スピカのときも、街に背を向けなかった。……二回だ。二回とも、あんたは、正しい方に盾を向けた。……もう、いいだろう」
ガロの、目から涙がこぼれた。
大男は、桶を地面に置いた。そして、井戸の脇に立てかけてあった、あの砕けた盾を手に取った。スピカの光にひしゃげ割れもう盾としては、使い物にならない、鉄の板を。
それを両手で抱えて。
深く、頭を下げた。
「……戻らせてください」
◇
その晩、〈鉄樹〉の、六人が揃った。
二年ぶりの、六人だった。いや――ニラを、入れれば七人。
溜まり部屋に鍋がかかった。
メイセンの鉄鍋。焦げの模様の染みついた、あの鍋で。ガロが両手で塩汁を作った。今度は、右手も、使えた。左手一本ではない、久しぶりの塩加減だった。
うまかった。
誰も、そう言わなかった。言う代わりに全員が二杯、三杯と、おかわりをした。ガロはいつものように「メイセンには、負けてる」と言い、コッツが「濃いのが、うまい」と言い、ミレアが「塩分の取りすぎよ」と言った。
いつもの、鉄樹だった。
卓の上では、旅の相談が始まっていた。
リディアまで馬車で二十日。教会の本拠地。街に入るだけなら、巡礼を装えばいい。問題は、大聖堂の地下だった。
「正面から入るのは、無理よ」とミレアが、地図の写しを指した。「〈星の間〉への門は、常時、聖騎士が四人。奥にさらに審問局の詰所」
「なら、正面以外は」とコッツ。
「同僚の話だと、地下水路が通ってるらしいわ。大聖堂の、下を。……古い、排水の水路」
「――スラム育ちの、出番だな」コッツが、にやりと笑った。「水路と抜け道は、おれの庭だ」
「子供を四十七人だぞ」とガロが、唸った。「連れ出すのはいい。連れ出した後、どこへ逃がす」
「灰の同盟だ」ヴァンネスが、言った。「大陸の、他の街の独立系の連中に渡りをつける。……三十の隊が一人か二人ずつ、匿えば四十七人は、消える。名前を変えて生き直せる」
名前を変えて。
その言葉に俺は、少し引っかかった。だが、今はそれを言わなかった。
生き延びるために、名前を捨てる子供たち。名前を覚えるために記憶を失う俺。
どこかで皮肉が噛み合っていた。
俺は、その賑わいの中でニラの、隣に座っていた。
ニラは、手帳を開いてこの光景を書き留めていた。几帳面な字で。
『鉄樹、六人に戻る。ガロさん、帰還。塩汁、いつもより濃い。ガロさん、右手が使えるようになったのに、いつもの「負けてる」を言った。みんな、二杯おかわり』
それから、少し迷ってから、彼女はこう書き足した。
『リゲル、笑っていた』
その一行を俺は、覗き込んで見てしまった。
「……俺、笑ってたか」
「うん」ニラは、ペンを止めずに言った。「久しぶりに。……スピカの後、ずっと笑ってなかったから」
そうか、と、俺は思った。
笑っていたのか。
隣の、この人がそれを記録してくれる。俺自身が気づかなかったことまで。
俺は、この人の横顔を見た。
見て――胸の、深いところがまた、微かに疼いた。
理由は分からない。
だが、この疼きは、この頃少しずつ、頻度を増していた。
ニラの、話を聞くとき。ニラが笑うとき。ニラが几帳面に何かを書くとき。
器の底の、そのまた底で。
何かが微かに動く。
手は、届かない。だが、そこに確かにある。
じいさんの、手紙の、一節を思い出した。大事なものほど、深く沈む。だから、押し出されるのは、最後だ――。
押し出された。
それは、底にあったということだ。
皮肉なことに。
疑うべき、あの人の言葉だけが、今の俺の唯一の希望だった。
◇
宴の終わり。
ニラが帰り支度をしているとき。俺は、彼女を呼び止めた。
「……ニラ。リディアに行く」
「うん。聞いた」
「危険な、旅だ。教会が相手だ。……いつ帰れるか、分からない。帰れないかもしれない」
「うん」
「だから」
俺は、言葉を選んだ。選んで選び切れずに言った。
「……あんたは、ここに残ってくれ」
ニラの、手が止まった。
「私を置いていくの」
「あんたを守りたい」
「守りたい、って」ニラは、静かに言った。「今のあなたにそれを言う資格があると思う?」
その言葉は、刃だった。
だが、彼女は笑っていた。泣きそうな顔で笑っていた。
「……ごめん。ひどいこと言った。……でもね、リゲル。あなたが私を守りたいって思うのは、あなたの、頭がそう言ってるからでしょう。心じゃなくて。『大事なはずの人だから、危険から遠ざけるべきだ』って、理屈で」
図星だった。
「私はね、理屈で守られたくない」
ニラは、手帳を抱えてまっすぐに俺を見た。
「私は、あなたの記録係。あなたが忘れたものを埋め直す係。……その仕事は、あなたの隣でしかできないの。ここに残ってあなたの帰りを待つのは――あなたが、旅の途中で失くしたものを、埋め直せないってこと。……それは、私の負けだから」
だから、と、彼女は言った。
「連れてって。……足手まといにはならない。ギルドの受付は辞める。……もう、辞表は書いてあるの」
几帳面なその手が懐から一通の、封筒を出した。
封蝋の、上には彼女の、あの字で日付が書かれていた。
スピカ戦の、翌日の日付だった。
俺が彼女を忘れた、その日の。




