第81話「六通目」
六通目の手紙は、その翌朝に届いた。
早すぎた。
スピカ戦から、半月。噂が村まで届き、返事が書かれ、行商が運んでくる。どう計算しても、間に合わない。
俺は、封を切る前にしばらく、その封蝋を見ていた。
見てから、開いた。
『リゲルへ
よくぞ、断った。
継がずに断ち切ったな。あの誘いを退けたな。
わしは、お前を誇りに思う。
星辰の獣は、器を探して地を這う。空の器を見つければ、全部を注ぎ込もうとする。受け取れば、力は途方もない。だが、代償も途方もない。あれを丸ごと継いだ者が、その後人として生きられた例をわしは、知らん。
お前は、力より記憶を選んだ。
それでいい。
それでこそ、器だ。
ただし、一つ。
器の底に滴が残ったろう。
二日、削り続けたのだ。ほんの一滴。だが、その一滴は抜けん。抜こうとするな。抜けば、器そのものが割れる。
その一滴の分、何かを失ったはずだ。
何を失った。
……訊くまい。
だが、これだけは、言っておく。
大事なものほど、深く沈む。器の底のそのまた底に。だから、大事なものほど、押し出されるのは最後だ。
逆に言えば。
押し出されたなら、それは、底にあったということだ。
わしは、その底を知っている。
だから、案ずるな。お前が失ったものは、無くなってはいない。ただ、お前の手の届かぬ場所に、移った。それだけだ。
いつか、取り戻す道もある。
その日が来たら、村へ帰ってこい。
支度を怠るな。刃を研げ。約束を忘れるな。
ベテル』
◇
手紙を卓に置いた。
手が震えていた。
いつもの、三度読みは、しなかった。一度で十分だった。
一度で全部が繋がってしまった。
――継がずに断ち切ったな。
なぜ、それを知っている。
街の誰も、俺が「継がずに斬った」ことを、知らない。核が囁いたことも。俺が誘いを退けたことも。俺の、頭の中だけの出来事だ。ヴェイユにすら、「継ぎたくなかった」としか、言っていない。
――器の底に滴が残ったろう。
なぜ、知っている。
滴のことは、誰にも話していない。ミレアにも。コッツにも。ニラにも。
――その一滴の分、何かを失ったはずだ。
なぜ。
――大事なものほど、深く沈む。だから、押し出されるのは、最後だ。
なぜ、この人は、俺の器の、内側の構造を知っている。
――わしは、その底を知っている。
知っている。
ついに書いてしまった。信じている、ではなく。知っていると。
――お前が失ったものは、無くなってはいない。ただ、お前の手の届かぬ場所に移った。
移った。
どこへ。
――いつか、取り戻す道もある。その日が来たら、村へ帰ってこい。
村へ。
あの人の、いる場所へ。
◇
俺は、荷の底から、五通の手紙を出した。
六通、卓に並べた。
そして、初めてそれを順番に読み返した。「師の言葉」としてではなく――「証拠」として。
一通目。『星無しの器でも、狩人にはなれる』
二通目。『こぼれた水は、消えん。どこかに溜まっている』
三通目。『夜、名を唱えろ。忘れぬために』
四通目。『大穴の下で近く、大きな星が動く』
五通目。『名簿に獲った男の名も、加えろ』『得物を替えるなら、柄は革を二重に』
六通目。『器の底に滴が残ったろう』『わしは、その底を知っている』
一通ずつ読めば、温かい、師の手紙だ。俺は、そうやって二年読んできた。
六通、並べて読めば。
これは。
これは、観測記録だ。
俺という器の。
中身がどう増えてどう減ったかを遠くから、正確に把握し続けている、誰かの記録。そして、その記録を元に次の、指示を出している。名を唱えろ。名簿に加えろ。刃を研げ。支度を怠るな。階層主が上がってきたら、狩れ――。
育てている。
器を。
何かを注ぐために。
遺構ラッシュの頃。俺は、あの人に訊いた。あんたは何者だ、と。
あの人は、えた。若い頃の狩り仲間の、情報網だと。獣を読む、狩人の耳の早さだ、と。
俺は、それで納得した。納得してしまった。
だが、今、六通を並べて分かる。
あれは、嘘だ。
いや――嘘、ではないのかもしれない。狩人の情報網は、本当にあるのだろう。だが、それは、目くらましだった。大穴の地震くらいなら、狩人の耳でも読める。だから、その一つを餌にして俺の疑いをそこへ、誘導した。獣の逃げ方で地震は読める、と。
そうやって俺に「なるほど、狩人の耳か」と納得させて。
その陰で本当の異常は――俺の頭の中の、滴のことを、器の底のことを、掌の汗のことを知っている、その説明のつかない部分は。
巧妙に問いの外へ、押しやられていた。
一つの、もっともらしい答えで。十の、説明のつかないことを覆い隠す。
それは、狩人の獲物を誘い込む、罠の張り方そのものだった。
俺は二年前、その罠に自分から頭を突っ込んで。
安堵していた。
そして、俺はもう一つのことに気づいた。
手紙には、一度も「帰ってこい」と、書かれていなかった。
二年間。一度も。
母が編んだ冬着の話は、するのに。手袋の話も、するのに。「顔を見せろ」とは、一度も、書かなかった。会いたい、とも。
それが初めて六通目に書かれた。
『その日が来たら、村へ、帰ってこい』
二年、呼ばなかった人が。
スピカを退け、澱の滴を器に受けた、この時に。
初めて呼んだ。
呼ぶべき、頃合いになったからだ。
「……じいさん」
声が掠れた。
「あんた、誰だ」
誰も、答えなかった。
春の朝の、光が六通の手紙を静かに照らしていた。
◇
その日、俺は、初めてその手紙を他人に見せた。
ミレアと、コッツと、ガロと、ヴァンネス。〈鉄樹〉の、全員に。
全部を話した。星継のこと。手紙のこと。二年間の、疑いのこと。畳んで畳んで畳み続けてきた、あの、違和感のこと。
全員が六通の手紙を順に読んだ。
読み終えて最初に口を開いたのは、ヴァンネスだった。
「……坊主。これは、手紙じゃねえ」
老兵の、声は、重かった。
「これは、餌だ。それも、とびきり、上等な。……俺は、傭兵時代、こういう文書を見たことがある。捕虜を寝返らせるときの、書状だ。優しくて正しくて、ぐうの音も出ねえほど、こっちのためを思って書いてある。そういう文書を何通も読ませて読ませて――最後に、たった一行、命令を書く」
老兵は、六通目の、最後の一節を指した。
『その日が来たら、村へ、帰ってこい』
「これだ。これが二年かけて仕込んだ、たった一行だ」
「……仕込んだ?」
「二年、この手紙はおまえに何を教えた?」ヴァンネスは、指を折った。「名を唱えろ。忘れるな。獲った奴の名も加えろ。……全部、正しい。全部、おまえを人間としてまっとうに保つ教えだ。それが二年、続いた。……なあ、リゲル。おまえは、この手紙を疑ったことがあるか」
「……ある。何度も」
「疑ってどうした」
俺は、答えられなかった。
畳んだ。毎回。疑いを畳んで仕舞い込んだ。あの人だけは、疑いたくないと思って。
「そういうことさ」ヴァンネスは、静かに言った。「二年かけて『この手紙だけは、疑えない』って場所を、おまえの中に作った。……そこに最後の命令を置いた。……坊主。これは調教だ」
調教。
その言葉が部屋に落ちた。
ガロが拳を握りしめていた。ミレアが目を閉じていた。コッツが俺の顔を見ていた。
俺は、六通の手紙を見下ろしていた。
二年間。
俺が母を失い父を失い、初めて人を殺しそしてニラを失った、その全部の夜に。
俺を支えてくれたのは。
この、字だった。
この字が俺の背骨だった。
その背骨が今、俺の背中の内側から、誰かの手のひらの形をしていた。
「……ヴァンネス」と、俺は、言った。「一つ、頼みがある」
「なんだ」
「アーロイ村に人をやってくれ。……同盟の伝手で、いい。行商でも、いい。あの村にじいさんがまだ、いるのか。俺が村を出てから、あの人が村を離れたことは、ないのか。……確かめてほしい」
老兵は、頷いた。
頷いて一つだけ、訊いた。
「……もしいなかったら。どうする」
俺は、答えなかった。
答えは、まだ俺の中にも、なかった。
ただ、六通目の手紙の、最後の一行だけが。
妙にあたたかく、俺を呼んでいた。
『その日が来たら、村へ、帰ってこい』




