【第六章 畿内】第八十六話 江
一五六六年 晩夏 京 浅井屋敷
海北綱親は、奥の廊下の角で、表からの報せを受けていた。
日が上がる前から、板が湿っていた。京の夏は、小谷より蒸した。産婆は夜明け前に裏門から入り、奥の離れへ入ったきり出てこなかった。茶々も初も取り上げた、小谷の産婆である。京で呼ばず、屋敷の近くに待たせてあった。
離れの襖の前に、長政が座っていた。膝には河内の国衆の書付があった。湯を運ぶ女中が前を通るときだけ膝を引き、通り過ぎるとまた襖へ向き直った。書付は開かなかった。
「・・・京は、暑いのう」
市の声が聞こえた。かすれていた。女中頭が何か答え、そのあとには低く息を吐く音がした。長政は襖を見たままであった。
初が乳母より先に廊下を来て、長政の隣へ座った。袖を掴み、一緒に襖を見た。乳母が連れ戻そうと手を伸ばしたが、長政は小さく首を振った。しばらくすると、初は袖を掴んだまま膝へ寄ってきた。長政が書付を脇へ置くと、そこへ上がって座った。長政の胸に背をつけ、また襖を見た。
日が高くなると、取次の者が中門のところで海北を呼んだ。和泉の国衆が、約束の書付を受け取りに来ているという。海北は廊下を戻り、表の手前の間で渡せと伝えた。書付は机の上に置いてある。
取次を帰すと、茶々が立っていた。乳母は一緒ではなかった。
「海北。ははさまは、まだか」
「まだにござりまする」
茶々が、海北の脇から離れを覗いた。
「わらわも、中へ入るぞ」
茶々が廊下を進もうとした。海北は膝を進め、前を塞いだ。
「なりませぬ、姫様」
「なぜじゃ」
市と同じ言い方であった。海北が答えられずにいると、茶々はその隣へ座った。腕を組み、襖をにらんだ。
日が傾き始めても、長政は立たなかった。初は膝の上で、長政の腕に頭をもたせて眠っていた。脇の書付も朝のままである。海北が表の用を取り次いで戻るたび、同じところに二人がいた。
襖の内で女中の声が高くなり、産婆が短く何か言った。続いて赤子が泣いた。長政の背が動いた。膝の初が目を開け、茶々は立ち上がった。
「海北。泣いたぞ。生まれたな」
言われなくても、分かっていた。海北は、うなずいた。襖が少し開き、産婆が出てきた。額の汗を拭い、長政の前へ膝をついた。
「お生まれになりましてござりまする。お二人にござる。先に若君、続いて姫君」
産婆はそこで止まり、長政の顔を見上げた。男女の双子を嫌い、片方をよそへ出す家もある。海北も口を開けずにいるうちに、長政が訊いた。
「市はどうか」
「お変わりござりませぬ。お二人とも、よう泣いておられまする」
産婆の顔が緩んだ。頭を下げて戻ると、内から市の声がした。
「双子か。今度は、おのこはおるのか」
かすれた声が笑っていた。はよう見せよという声に、衣擦れの音が重なった。女中頭が止める間に襖が開き、市が立った。寝間着に羽織をかけ、髪は乱れていた。顔は白く、額には汗の跡があった。
「長政。見に来い」
「お市様、殿方は産所へは入れませぬ」
「何を言うておるのじゃ。長政の子じゃ。わしがゆるす。早う来い」
長政は敷居の前から動かず、市を見ていた。その脇を茶々が抜けた。海北が追って敷居へ寄ると、乳母が二人、赤子を一人ずつ抱いていた。
市は茶々の手を取り、乳母の方へ歩いた。足がふらつき、女中頭が背へ手を伸ばしたが、市は振り向かずに払った。
「見よ、茶々。こっちがおのこか」
乳母がうなずいた。茶々は赤子の顔へ身を寄せ、小さいと言った。
「おぬしも、これくらいであったのじゃぞ」
茶々はもう一人も覗き込んだ。先に見た赤子が泣くと、そちらへ顔を戻した。乳母が抱き直すのを待ち、もう一度身を寄せてから、市を見上げた。
「わらわの方が、よう泣いたか」
「そうじゃ。もっとうるさかったぞ」
茶々が口を尖らせ、市は笑った。敷居の外には初が立ち、長政の袖を握っていた。市は二人へ振り返った。
「長政。おのこじゃ」
得意げな顔であった。長政の目が、乳母の腕へ動いた。
「おなごもおりまする。市に、よう似ておりまする」
「ちちさま。どこがははさまに似ておるのじゃ」
市は茶々の頭へ手を置いた。長政はもう市の方を見ていた。海北は敷居の脇へ下がった。長政の口の端が、少し動いた気がした。
「茶々、そんなこと言うでない。よう似ておるわ。のう、初」
「・・・にて、おりまする」
初が袖を掴んだままうなずいた。長政と同じ言い方であった。市は羽織の前を合わせ、長政へ顔を戻した。目が、いつもの目になっていた。
「して、長政。次はどこを攻めるのじゃ」
長政は答えなかった。初はまだ袖を放さず、茶々は赤子を覗き込んでいた。
◇
松永久秀は、御所を出て、東洞院の通りを馬で下っていた。
供は五人であった。御所では義兄に会い、大和の支配を認めてもらう頼みを重ねた。まだ時がかかる。返ってきたのは、それだけであった。
築地の修繕は終わっていた。門には浅井の兵が立ち、通りへ出ても辻ごとに兵がいた。日が傾いても店は戸を開け、品を並べている。松永はその前を過ぎ、三条の辻を越えた。
浅井の屋敷の築地が続いていた。門は三条の通りに向いている。こちらには出入り口がなく、庭木の枝が塀を越えて出ていた。松永は枝の下を通り、手綱を引いた。
「おい、聞こえるか」
供も馬を止めた。築地の内から細い声がした。聞いているうちに高くなり、途切れてはまた続いた。
「赤子にござりまするな」
松永は築地へ顔を向けた。まだ生まれて間もない泣き声であった。その声に、もう一つ重なった。片方が弱くなると、もう片方が泣いた。あやす女の声も聞こえたが、言葉までは届かなかった。
「殿」
松永は返さなかった。春にも夏の初めにも、女はいなかった。京におると聞くばかりで、姿を見た者はいなかった。病でも不和でもなく、腹に子がいたのか。
築地の向こうで、赤子がまた泣いた。
「なんじゃ、そういうことじゃったか・・・くそっ」
親指を口へ運び、爪を噛んだ。二度も兵を出した。来るはずの女を待ち、本陣の槍を崩せず、引くあいだも列の外を見続けた。その女は、この中で子を産もうとしていた。
供の一人が馬を寄せかけ、止まった。松永は指を離した。淀にも、京から下る道にも人を置いた。台所の者にまで訊かせた。それでも聞けなかったことが、いまは通りへ聞こえている。
浅井の当主は、その間に二度、自分で出てきた。女が来ぬ理由は一言も告げず、奈良坂の手前で兵を止めた。松永は築地の上へ目をやった。ここに女を置いて、あの若い男だけが出てきていた。
泣き声が小さくなった。松永は息を吐いた。少し笑いに似た音が出た。供の者が行く先を見たが、松永はまだ手綱を緩めなかった。
「多聞山の蔵に、薙刀があったじゃろ。備前の、古い物じゃ」
供が顔を戻した。松永は築地から目を離し、その者を呼び寄せた。
「大和へ使いを出せ。あれを持ってこさせよ」
「薙刀を、何にお使いで」
「祝いじゃ。浅井に子が生まれたのじゃろうが」
供は返事をしかけ、口を閉じた。松永と共に、二度とも奈良坂を越えた者であった。屋敷の門へ通じる辻を見てから、松永へ目を戻した。
「浅井へ、お贈りになるので」
「何度も言わすな。浅井にじゃ。備前守になったと聞く。備前の物がよかろう」
供が頭を下げても、松永はその場にいた。築地の内は静かになっていた。あれほど人の口を閉じさせても、この声までは止められぬか。庭木の葉が揺れ、奥で女が何か言った。
「早うせい」
供の一人が馬を返した。松永も手綱を緩め、通りを進んだ。築地が途切れるところで、後ろからまた赤子の泣き声がした。
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