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長政は、お市に勝てない ―敵陣へ駆ける妻を、浅井長政は裏で勝たせる―  作者: 島村 巡
【第二部 畿内編|第六章 畿内】

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【第六章 畿内】第八十四話 松永の本陣 動かすな

一五六六年 初夏  山城 南山城



 松永久秀は、木津の川沿いの村で、戻ってきた物見を本陣へ通させた。


 春に止まった村を過ぎ、淀へ近づいたところであった。本陣の前には槍を二重に並べ、川の側と村の家々のあいだにも兵を置いてあった。


 筒井の者は二人見つけた。いずれも名の知れた者ではなかったが、筒井に仕えていたことは確かめた。家臣はその名を書き留め、捕らえた者を兵に預けた。松永は二人をここへ連れてこいとは言わず、物見を前へ呼んだ。


「浅井が出てまいりました。千五百ほど。当主が率いておりまする」


「やはり来たか。騎馬は」


 当主のまわりに十ほど、あとは徒の兵だという。松永は膝へ置いた手を動かさず、物見の報せが終わるのを待った。


「・・・女はどうじゃ。おったか」


「見えませなんだ」


 松永は物見を下がらせた。本陣の前を槍の者が横切った。入れ替わる者が同じところに立つまで見てから、幕の内へ戻った。


 夕方、浅井の屋敷の門を見張らせていた男が来た。夜明けに当主と供の騎馬が出た。そのあとに糧の駄が続き、日が高くなってから、残りの駄が出たという。


「黒い馬は、出なんだか」


「出ておりませぬ。当主の発った日は、日が暮れるまで見ておりました」


 松永は身を乗り出した。当主を見ただけで戻ってくるなと命じてある。男は門を閉めるところまで見届け、あとを別の者へ任せて来たと答えた。


「屋敷の中で、何ぞなかったか」


「奥の方で、女の声がしばらく騒がしゅうござりました。日が上がってからのことで。何を言うておったかは、聞き取れませなんだ」


「騒がしゅう、か」


 松永は親指の爪を噛んだ。男は頭を下げたまま、次の問いを待っていた。


「それから、どうなった」


「静かになりました。残りの駄が出たのは、そのあとにござりまする」


 松永は口から指を離した。男は頭を下げたままであった。声がしたというところだけを、もう一度話させた。


「誰かの名を呼んではおらなんだか」


「そこまでは。女の声が重なっておりまして」


 奥方の声だったとも、男は言わなかった。松永が黙ると、外へ出てきた駄の数を挙げ始めた。松永は手を上げ、それは聞いた、と止めた。男は膝を引き、幕を出ていった。


 灯を入れる頃、淀と街道に置いた二人が戻ってきた。当主は城南宮に参り、淀へ下った。城から出た兵にも、黒い馬の女はいなかった。


 鳥羽と伏見では、浅井の列が通ったあとも見張らせていた。別の列が来るか、女が少人数で追ってくるか。待ったが、どちらも来なかったという。


「まだ、道には残しておるな」


「はい。動きがあれば、すぐにこちらへ」


 松永はうなずき、二人を下がらせた。灯の向こうに、本陣の槍の影が並んでいた。門から出ず、淀にも現れず、あとから道を追っても来ない。幕の外で馬が鼻を鳴らすと、松永はそちらを見た。新しい報せではなかった。


 ◇


 浅井の槍が進み始めると、松永は村外れの小高いところへ馬を上げた。


 浅井の列は春より長かった。組と組のあいだが揃い、前へ出るときも、隣の組を追い越さなかった。松永は列の端から川岸へ目を移した。水際に沿って来る馬はいない。家の陰から出てくる者もいなかった。


「川の側は」


「何も見えませぬ。村の外も、見張っておりまする」


 家臣が答えた。松永は浅井の本陣を見た。旗の下に床几があり、若い男が座っていた。春に奈良坂から見下ろした当主である。あのときより近いが、顔までは分からなかった。


 槍が当たった。松永の列が押し返すと、浅井の前が下がった。だが、引いた者のところへ次の槍が出てきた。列のあいだに隙間が開かない。組の頭らしい者が声を張り、前へ出す足が揃った。


 松永の兵が押され始めた。前から戻った伝令が、家臣のそばへ膝をついた。家臣は話を聞くと、本陣の槍へ目を向けた。


「一組、前へ回しまするか。道のところで押されておりまする」


 松永は川岸から顔を戻した。本陣の前で、組の頭がこちらを見ていた。槍の者はまだ動いていない。頭は松永が手を上げるのを待っていた。


「そこは動かすな。前が下がる分は、下げてよい」


 家臣は槍の列を避けて走った。本陣を囲む者は残った。松永は、浅井の列の端をもう一度見た。正面が当たっているあいだに、女が大将のところへ来る。去年の三好の者は、そう話していた。


 何も来なかった。


 床几の男も立たなかった。伝令が駆け込むと、頭が少し動いた。伝令はまた前の列へ戻っていった。男が槍を取ることも、馬を呼ぶこともなかった。松永は顔を見ようとしたが、旗の下の影までは見分けられなかった。


「少しずつ引け。奈良坂の方へ。本陣のまわりは、このままじゃ」


 松永は馬を返し、丘を下りた。槍の者が馬のまわりへ寄り、村へ続く道を空けた。前の列を下げる声がかかった。浅井は退く分だけ進み、松永の兵を追い立てるようには走ってこなかった。


 村を抜けると、見通しが変わった。さっきまで家に隠れていた田が広がり、畦の先まで見えた。松永は馬上から見渡した。田の側にも、川の側にも、黒い馬はいなかった。


「殿。まだ、どこにも」


「分かっておるわ。黙って見ておけ」


 家臣は口を閉じ、列の外へ目を戻した。次の村へ入っても、本陣の槍は崩さなかった。京から報せを持ってくる者がいれば通せと命じてあったが、駆け込んでくるのは前の列の伝令ばかりであった。


 奈良坂の下へ戻ると、浅井も止まった。春と同じ、坂の手前である。松永は馬を止めた。兵が坂を上り始めても、浅井の槍は追ってこなかった。


 筒井の者を探した村について、問いに来る使いもなかった。捕らえた二人を渡せとも言ってこない。家臣が二人を坂へ上げるよう命じ、そのあとから荷を運ぶ者が続いた。


「殿、いかがなされまするか」


 家臣は村々へ探しに出した兵の名を挙げた。まだ本隊へ戻していない者がいる。筒井の残りを追わせるなら、その者たちへ使いを走らせると言った。松永は坂を上っていく二人を見た。縄を引く兵の陰へ、すぐに姿が隠れた。


 松永はすぐには答えなかった。浅井の列を、川に近い端から道の側まで見た。途中で視線を戻し、旗の奥も見た。女は、いなかった。


 春より多く兵を出し、京へ近づいた。浅井も千五百を出してきた。それでも、当主のまわりにいたのは同じ十ほどの騎馬だけであった。屋敷を出るところから、淀、街道、目の前の陣まで見させている。女だけが別に来るなら、どこかに姿を見せるはずであった。


 二度とも、来なかった。


 松永は手綱を握り直した。今度も出なかったというなら、当主が出せぬ事情がある。兵を増やしても、その事情は変わらなかった。


 屋敷の奥では女の声がしたという。騒がしくなり、静かになった。そのあと、門から出たのは糧の駄だけである。松永は坂の下の当主の旗を見た。あの男をもう一度ここへ出させても、屋敷の奥までは見えぬ。


「村へ出した者も呼び戻せ。筒井の者は二人見つけた。大和の主の務めは果たしたわ。城へ戻る」


「浅井は、追うてまいりましょうか」


 家臣が旗を振り返った。浅井の前の列では、槍を下ろす者が出始めていた。松永は馬の首を坂へ向けた。


「上っては来ぬじゃろ。前と同じじゃ。それより、京の者は引かせるな。屋敷を探らせよ」


 坂を上りながら、一度だけ振り返った。浅井の旗は、坂の下に止まっていた。松永は前を向き、兵を連れて坂を越えた。

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