【第六章 畿内】第八十三話 出陣の支度 大将が出てきたら
一五六六年 初夏 京 御所
海北綱親は、長政の後ろについて御所の門をくぐった。
口宣の礼を申し上げ、あわせて書付を差し上げるためであった。河内の堰と、摂津の郷の二度目の訴え。公家の荘から届くようになった上がり。それぞれどう扱ったかを、長政はまた書付にまとめていた。
「備前守様。こちらへ」
案内の者が、門の内で待っていた。名を告げる前に頭を下げ、先へ立った。海北はその後ろを歩いた。前はここで、奥へ入った者が戻ってくるのを待っていた。
庭へ出ると、草は抜かれていた。長政が膝をついてきたところに、筵が一枚敷いてあった。長政は何も言わず、その上へ座った。海北は庭の端へ下がった。膝の下は砂であった。
広橋国光が縁へ出てきた。座ると、庭の長政へ声をかけた。
「備前守様、よう参られたのう」
長政は筵の上で平伏した。海北は庭の端から国光を見ていた。浅井殿、とは呼ばなかった。
「此度の口宣、ありがたく頂戴いたしましてござりまする」
「それはよいこと」
国光はそれだけ言った。長政は懐から上包みを出し、前へ置いた。
「あわせて、書付を差し上げまする。この春よりのことを、したためてござりまする」
案内の者が取り上げ、縁へ運んだ。国光は受け取って膝へ置いた。何をせよというのかとは、もう訊かなかった。
「それはそうと、備前守様。南山城が、また騒がしいようでのう」
長政は頭を下げたまま聞いていた。国光は上包みを膝の脇へ寄せ、扇を取った。
「大和の弾正が、なにやら兵を出したとか。春の折より、多いそうじゃが」
「松永殿が、また南山城へ」
「筒井の残りを追うとやら。大和のことは、大和で片を付けると言うておるそうな」
国光は扇を開いた。長政は次を待っていたが、大和のことじゃからのう、と言ったきり、口を閉じた。
庭の端で、海北は膝を揃え直した。国光の扇が動いていた。長政が何も申し上げずにいると、その扇が止まった。
「ただ、春よりも京へ近うなっておるというではないか。村も荒れておるそうな。そういうのは、よろしゅうない」
「畏れながら。南山城を鎮めよ、との仰せにござりまするか」
国光は扇の端で膝を撫でた。長政は顔を上げなかった。
「・・・そう受け取られてよい」
「大和の者を追うことには口を出さず、境目の乱れを鎮めるまで、にござりまするな」
「麿は、筒井の者を匿えなどとは申しておらぬぞ」
国光の声が少し早くなった。長政は頭を下げ直したが、まだ退かなかった。案内の者も縁の脇で待っていた。
「はい。筒井の者には手を触れませぬ。松永殿の兵を、奈良坂の方へお戻し申せば、よろしゅうござりまするか」
国光は扇を閉じた。庭の長政を見下ろし、それから膝の脇の上包みを取った。
「あとは、麿の考えるところではない」
「承りましてござりまする」
長政は筵へ額をつけた。国光は上包みを持って立ち、縁の奥へ入っていった。長政が身を起こすと、案内の者が庭へ下りてきた。
殿上の間の障子が、少し開いていた。中の公家が長政を見て、座ったまま頭を下げた。隣の者も下げた。長政は歩みを緩め、頭を下げ返した。
海北はその顔を覚えていなかった。春に、この障子の内から無粋やと笑う声がした。誰の声であったかは知らない。今は、長政が通り過ぎても笑い声は聞こえなかった。
「海北。南山城へ兵を出す。此度は千五百じゃ」
門を出たところで、長政が足を止めた。海北は帳面を開き、淀の兵の数を見た。
「淀だけでは足りませぬが」
「足りぬ分は、京から回せ。辻と御所の門の兵は減らさぬ」
海北は帳面へ書き付けた。長政は兵を淀でまとめるよう命じ、自分は城南宮に参ってから下ると言った。海北が帳面を閉じると、もう馬へ向き直っていた。
一五六六年 初夏 京 浅井屋敷
長政は夜明けに発った。今度も京に残った海北は、あとから淀へ送る糧を確かめに、奥の馬屋へ回った。
馬屋の者が駄へ俵を括り、野村が馬の脚を見ていた。その奥で、熊手を使って干し草を寄せている男がいた。望月であった。海北と目が合うと、手を止めずに頭を下げた。海北も何も訊かず、俵の数を帳面と照らし合わせた。
奥の廊下を、足音が近づいてきた。女中たちが待ってくれと呼んでいる。海北が顔を上げると、市が馬屋の前へ出てきた。
袴をつけ、髪を束ねていた。頬には赤みが戻っている。だが、帯のあたりは大きく張り、上からかけた羽織では隠れていなかった。市はあたりを見回した。
「長政はどこじゃ」
「夜明けに、お発ちになりましてござりまする」
「わしに黙ってか」
海北は帳面を閉じた。長政は昨夜、奥へ行って告げている。そのとき市は、もう寝ていたと女中頭から聞いた。海北が答えずにいると、市は仕切りの中の黒い馬へ目を向けた。
「南山城じゃろ。此度は、わしが出る。もう動けるわ」
「お市様、お腹の御子が」
女中頭が前へ回ろうとした。市はその脇を抜け、馬屋へ入った。仕切りの戸を開くと、黒い馬が首を伸ばしてきた。
「つわりは済んだ。もう大事ないわ」
市は馬の首へ手をかけ、外へ引き出した。馬屋の真ん中で止めると、鞍を持て、と声をかけた。馬屋の者が一人、走りかけて野村を見た。野村は海北を見ていた。
海北は帳面を抱えたまま、市の前へ出られなかった。
市は自分で鞍掛けへ行き、鞍を取った。馬の背へ載せようと身を傾け、途中で止まった。息を吐き、持ち直して載せた。腹帯を締めるときには、かがまずに手を伸ばし、帯の端を探っていた。
鐙へ足を上げかけると、腹がつかえた。市は自分の腹を見下ろし、もう一度足を上げた。今度は鐙にかかったが、鞍を掴んだまま体が上がらなかった。
「・・・なんじゃ、これは」
「お市様、それ以上は」
女中頭の声が裏返った。海北が一歩出かけたところで、望月が熊手を置いた。市の前へ来て膝をつくと、市が振り向いた。
「なんじゃ、望月ではないか。なぜ馬屋の者の形をしておる」
「手前の仕事にござりますれば」
「わしは出る。そこを退け」
望月は膝をついたままであった。市は鐙から足を外さず、鞍の縁を握っている。野村が馬の首のそばへ寄った。
「此度の相手は、お市様が出られるほどのものではござりませぬ」
「なぜじゃ。敵がおるのであろう」
「大将が出てきておりませぬ。筒井の残りを追う雑兵ばかり。弾正は、奈良の城から動いておりませぬ」
海北は望月を見た。国光は、弾正自身が出ているかどうかまでは言っていない。海北には、今の話が本当かどうか分からなかった。
市は望月を見下ろしていた。鞍を握ったまま、返事をしなかった。馬が首を動かすと、野村が手を添えた。
「・・・つまらぬの。大将のおらぬ戦など、長政で足りるわ」
市は鐙から足を下ろした。手綱を放すと、野村が受け取った。女中頭が袖を引いても、市は振り払わなかった。空いた手は腹へ当てていた。
「お市様、奥へ」
「分かっておる」
市は歩き出し、廊下の手前で振り返った。
「望月。大将が出てきたら、呼べ」
「承った」
女中たちが市について奥へ戻っていった。野村は黒い馬の鞍を外し始めた。俵を括っていた者たちも、止めていた手を動かした。
望月は熊手を取り、干し草の前へ戻った。海北はそのそばへ行き、声を落とした。
「望月殿。今の話は、まことにござるか」
「お市様が出られぬようにするのが、手前の仕事にござります」
望月は干し草を寄せた。海北はそれ以上訊かず、帳面を開いた。数えかけていた俵を、初めから数え直した。奥では野村が黒い馬を仕切りへ戻していた。
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