【第六章 畿内】第八十二話 松永、ふたたび 女を見たら、すぐに寄越せ
一五六六年 初夏 大和 多聞山城
松永久秀は、本丸の座敷で、京から来た手の者を前に座らせていた。
障子は開け放してあった。奈良の町の瓦屋根が日に光り、庭からは草を刈る音が聞こえていた。男は町の報せを書いた紙を膝へ広げたが、読み上げる前に顔を上げた。
「浅井の屋敷へ、御所の使いがまいりました」
「御所の使いじゃと。何をしに来たんじゃ」
冠の公家が、供を連れて入ったという。供は細長い箱を持っていた。遠侍で待っていた国衆は座敷へ通されず、呼ばれて廊下へ出た者まで戻された。
「口宣にござりまする。浅井の当主を、備前守に任ずると。屋敷の者が話しておるのを聞いたそうにござりまする」
松永は男の膝の紙を見た。郷の名が書いてあった。浅井へ訴えを持ち込み、座敷へ上がった者の名もあった。門の外の噂を拾っただけではなかった。
「・・・それでどうした」
「帰りに、浅井の家の者が供へ包みを渡したそうにござりまする。そのあと、待っていた者がまた呼ばれたと」
「そうか。包みを、か」
松永は脇の文箱を開けた。義兄からの返書が重なっていた。一番上を抜いて広げると、大和のことはまだ時がかかるとある。浅井に口宣が下ったことは、書かれていなかった。
年明けから頼みを重ねている大和の支配は、認められていない。浅井に御所から使いが立ったことは、義兄ではなく、町へ置いた男から聞いた。
「浅井が、位をくれと言うておったのか」
「そこまでは、分かりませぬ」
男は紙を見直したが、顔を上げて何も足さなかった。求めたのかどうかは分からぬ。それでも、御所は出した。松永は返書を畳んだ。春には御所の指図かと疑った。今度は、御所から浅井の門へ使いが入っている。
「女は・・・いや、奥の方は、なんぞ分かったか」
男は紙を膝へ伏せた。頭が低くなった。松永は返事を待たず、親指を口へ運んだ。爪を噛んでも、男は口を開かなかった。
「あいかわらずか」
「はい。御所の使いのことまで聞けまするが、奥のことだけは、何も」
松永は親指を口から離した。春に当主が出たときも、女はいなかった。たまたま出なかったのか、出せぬのか。聞いて回らせても、どちらとも決められなかった。
「京へ戻れ。門から出る者を見ておけ」
男は紙を畳み、懐へ収めて下がった。松永は文箱を閉じた。
◇
松永は家臣を呼び、座敷の奥へ絵図を広げさせた。家臣が膝をつくと、奈良坂の向こうへ手を置いた。
「もう一度、南山城へ出るぞ」
家臣は松永の手元を見た。木津の川沿いに、春に兵を入れた村々が並んでいた。
「牢人どもは、もう散っておりまするが」
「牢人ではないわ。今度は、筒井の残党を追うことにするんじゃ」
家臣は松永の顔を見た。松永は大和の側へ手を戻し、筒井の城を示した。小僧を追い出した城には、今も松永の兵がいる。だが、その家の者まですべて捕らえたわけではなかった。
「筒井の者が奈良坂を越えて、村に隠れておるという話は、聞いておるじゃろが」
「木津の川沿いに入ったと聞いておりまする。なれど、皆が同じ村におるかどうかは」
「ならば、村を回れ。おるところまで追えばよいわ。兵は二千、揃えよ」
家臣は顔を上げた。松永は筒井の城から指を離し、川沿いの道へ移した。
「二千にござりまするか。逃げ散った者を追うには、多うござりまするが」
「二千じゃ。わしも出る。まず、どの村まで逃げたと聞いておるか、示せ」
家臣は絵図の村を順に指した。春に松永の兵が入ったところを過ぎても、指は止まらなかった。その先に淀がある。松永は家臣の手元を見ていた。
「そこまで行け。春に止まったところで、止まるな」
「それでは、京に近うなりまする」
家臣が指を引いた。松永は同じ村を叩いた。そこに筒井の者がいると確かめたわけではない。家臣も、ここにいるとは言っていなかった。
「逃げた先がそちらなら、そちらへ追う。それだけのことじゃ」
大和の家の者を、大和の主が追う。坂を越えたからといって、追うなと言われる筋はない。松永は筒井の城から、川沿いの村へ指を動かした。牢人を討つためと称して出た春には、浅井に境目で押し返された。今度は、追う相手を先に言っておく。
「なれど、浅井がまた境目を鎮めると申してきましたら」
「何を鎮めるんじゃ。大和の謀反人を追うておると答えよ。京を攻めるなどと、誰が言うた」
家臣は口を閉じた。松永は絵図から顔を上げた。御所が浅井に備前守の名を与えたことと、大和の逃げた者を松永が追うことは、別である。それまで止めるというなら、浅井の方こそ何の用で出てきたかを言わねばならぬ。
「筒井の残党を追うと、触れを出せ。大和の中の者にも、外の者にもじゃ」
「承知。二千を揃えまする」
家臣は懐から紙を出し、兵の数を書き付けた。松永はその筆を見ていた。春は千を出した。今度は倍を揃え、京へ近いところまで進める。浅井がまた五百だけで来るか。京を任された当主が、淀の手前まで来た二千を放っておけるか。
大勢で出るなら、女も連れてきたいはずである。
女が来れば、大将のまわりへ槍を集めねばならぬ。春は見えぬ女を探すあいだ、本陣の守りを崩せなかった。今度も女が出てこないなら、何かある。一度来なかっただけでは、兵を動かすたびに同じ備えをせねばならなかった。
「それとな、京へ手の者を増やせ」
家臣は書き終えた紙から顔を上げた。松永は絵図の京を指し、そこから淀へ手を下ろした。
「浅井が出る日に、屋敷の門を見張らせよ。当主だけ見て戻ってくるな。誰が出るか、馬が何頭か。黒い馬がおるかじゃ」
「淀から出る兵も、見させまする」
「城南宮も忘れるな。当主は、出る前にあそこへ参る。京から下る道にも置け。鳥羽にも、伏見にもじゃ」
家臣は二千と書いた脇へ、場所の名を書き足していた。松永がまだ指を離さないので、筆を止めて待った。
「当主の列におらんでも、女があとから来るかもしれぬ。列が通ったら終いではないぞ」
春には、兵を退いてからも淀へやった者の帰りを待った。女はいないと言われても、道の外や山裾を見ずにはいられなかった。今度は、京を出るところから見張らせる。
「女を見たら、すぐに寄越せ。見ておらん者の話は要らぬ」
家臣は紙を読み返した。村を回って筒井の者を追う命と、京から出る浅井の奥方を探る命が、同じ紙に並んでいた。松永は筆が止まると、支度にかかれと言った。
家臣が下がっても、松永は絵図の前に残った。女が出られぬと決まったわけではない。京の男は、あいかわらず何も分からぬと言っただけである。
春と同じように、本陣の前には槍を二重に並べる。来るかどうかは、その内側から見る。
◇
奈良坂を越えると、木津の川が光っていた。田には水が入り、畦を人が歩いていた。松永は馬を止め、坂を下りていく兵を見た。先の列が村へかかっても、後ろの列はまだ坂を越えていた。
家臣が馬を寄せ、川沿いへ進ませてよいかと訊いた。松永はうなずき、馬を出した。春に本陣を置いたところには、もう誰もいなかった。
そこを過ぎると、列の先の村から人が出てきた。松永は家臣を呼び、筒井の者が来なかったか訊かせた。村の者は首を振った。
「では、次じゃ」
松永は馬を進めた。二千の兵が、淀へ続く道を先へ延びていった。
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