【第一章 六角】第九話 帰り道 戦とは楽しいものじゃな
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帰りは、来たときより遅い。
急ぐ理由がない。先頭が歩みを緩めると、後ろも同じように緩めた。緩めた分だけ列が伸びる。伸びても、後ろは詰めてこない。旗は行きのようには揃っていない。槍を肩へ載せている者も、具足を脱いで抱えている者もいた。
あちこちで声が上がっている。同じところで走った者同士が何かを言い合い、言われた方が笑い、周りも笑う。何を言っているかは、前の方までは届かない。
日暮れまでに小谷へは着かない。長政は先ほど、馬の速い者を街道の先へ走らせたところであった。
人を入れる家と、馬を繋ぐ場所と、水を汲むところを、名主に決めさせておかねばならない。兵が着いてから戸を叩いたのでは遅い。
西に湖が見えている。日は湖の方へ落ちかけていた。傾いた光が街道を横から照らし、人と馬の影を東へ長く伸ばしている。
長政は、市と並んで馬を進めていた。
二頭のあいだは、手を伸ばしても届かないほど空いている。道が狭くなると近づき、広くなるとまた離れる。どちらが合わせているのでもない。供の者と兵は、後ろに少し離れていた。
市は上機嫌であった。
背が立っている。疲れた様子はない。鼻歌のようなものが、時折もれている。歌ではない。節にもなっていない。少し続いて、途切れる。忘れた頃に、また始まる。
長政は、二度、市の方を見た。一度目は声をかけなかった。
「お市様」
「市でよい。めおとになったのじゃ」
返事が早かった。考えてから言った間がない。ただ、違うものを違うと言っただけであった。
長政は、すぐには答えなかった。手綱を右手から左手へ移し、また右手へ戻した。
「・・・では、市」
「なんじゃ」
市が顔を向けた。
市の顔が近すぎる。
日が横から当たっていた。頬に土がついている。額にも、髪の生え際に沿って埃が残っていた。袖の前には、乾きかけたものが黒く散っている。埃と、たぶん血である。
拭ってはいない。束ねた髪は、後ろの半分ほどが解けている。落ちた髪が頬にかかっていたが、市はそのままにしていた。
息が止まった。訊こうとしていたことが、頭から消えた。
訊きたいことはいくつもあった。なぜ旗の下にいる者が大将だと分かったのか。どこであの薙刀を習ったのか。どれも口から出なかった。
「いつも、このような戦い方を」
出たのは、それだけであった。
「いや、戦は初めてじゃ」
「いつも兄上に止められておった」
言ってから、前へ向き直った。
長政は、手綱を持ったままであった。指が動かない。手綱が少し緩み、馬が半歩だけ市の馬へ寄った。引き戻すと、馬は首を振った。
道は変わらず続いている。後ろでは、誰かが戦の話をしている。また笑いが起こった。蹄が乾いた道を踏む音も、具足の金具が触れ合う音も、先ほどまでと変わっていない。
長政は、自分が息を吐いていないことに、しばらくしてから気づいた。
息を吐いた。
もう一度、市を見た。初めて戦へ出たと言った者の顔には見えなかった。初めてでない者がどのような顔をするのか、長政も知らなかった。
「・・・」
声が出なかった。出そうとしなかったのかもしれない。それすら分からなかった。
「戦とは楽しいものじゃな。次もわしにまかせよ」
市は、こちらを見ていない。前を見ている。返事を求めてもいない。次があることも、その次に自分が出ることも、すでに決まっているような言い方であった。
湖の方から風が来た。市の髪が、まとめたところから幾筋か落ちて流れた。市は手をやらなかった。
笑っている。
口元だけではない。目が細くなっている。湖へ落ちる日が横から当たり、頬についた土まで明るく見えた。
長政は、市の横顔をずっと見ていた。
初めて戦へ出た者の顔ではなかった。何の顔なのかも分からなかった。
心臓が鳴っている。さっきから、ずっと鳴っている。目が離せない。市はこちらを見ていない。前を見て、笑っている。だから、見ていられる。
村へ出した者は、そろそろ着いている頃である。
泊まる家を三軒か四軒。入りきらない者は、納屋か寺へ入れる。
米は持たせてある。足りないぶんは、村から出させることになる。味噌も塩も、馬に食わせる藁も要る。
誰が何を出したか、その場で書かせる者もいる。帰ってから帳面に付け、浅井から返す。戦に勝ったことと、村から出させた米を返さなくてよいことは、別の話であった。
手負いの者は、列の中ほどに集めてある。今夜のうちに傷を見る者を決めなければならない。
長政は、それを順に考えた。考えながら、市を見た。
市はまだ笑っていた。
列の後ろで、誰かが大きく笑った。別の者が何か言い、何人もの声が重なった。言葉は届かない。笑いだけが街道を前へ伝ってきた。
市が振り返った。後ろを見て、自分も笑った。何を言われたのか、聞こえていたのかどうかは分からない。
それから前へ向き直った。
鼻歌のようなものが、また始まった。
長政も前を向き直した。
顔が火照っている。
村へ着いたら、先に手負いを下ろす。次に馬へ水をやる。米の数を確かめる。そのあとで、市の袖についた血を誰かに拭わせる。
そこまで考えて、また市を見た。まだ鼓動が戻らない。
日は湖へ落ちた。
残った光で、湖の面が赤くなった。
長政の顔も赤い。




