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長政は、お市に勝てない ―敵陣へ駆ける妻を、浅井長政は裏で勝たせる―  作者: 島村 巡
【第一部 北近江編|第一章 六角】

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【第一章 六角】第九話 帰り道 戦とは楽しいものじゃな

 ◇


 帰りは、来たときより遅い。


 急ぐ理由がない。先頭が歩みを緩めると、後ろも同じように緩めた。緩めた分だけ列が伸びる。伸びても、後ろは詰めてこない。旗は行きのようには揃っていない。槍を肩へ載せている者も、具足を脱いで抱えている者もいた。


 あちこちで声が上がっている。同じところで走った者同士が何かを言い合い、言われた方が笑い、周りも笑う。何を言っているかは、前の方までは届かない。


 日暮れまでに小谷へは着かない。長政は先ほど、馬の速い者を街道の先へ走らせたところであった。


 人を入れる家と、馬を繋ぐ場所と、水を汲むところを、名主に決めさせておかねばならない。兵が着いてから戸を叩いたのでは遅い。


 西に湖が見えている。日は湖の方へ落ちかけていた。傾いた光が街道を横から照らし、人と馬の影を東へ長く伸ばしている。


 長政は、市と並んで馬を進めていた。


 二頭のあいだは、手を伸ばしても届かないほど空いている。道が狭くなると近づき、広くなるとまた離れる。どちらが合わせているのでもない。供の者と兵は、後ろに少し離れていた。


 市は上機嫌であった。


 背が立っている。疲れた様子はない。鼻歌のようなものが、時折もれている。歌ではない。節にもなっていない。少し続いて、途切れる。忘れた頃に、また始まる。


 長政は、二度、市の方を見た。一度目は声をかけなかった。


「お市様」


「市でよい。めおとになったのじゃ」


 返事が早かった。考えてから言った間がない。ただ、違うものを違うと言っただけであった。


 長政は、すぐには答えなかった。手綱を右手から左手へ移し、また右手へ戻した。


「・・・では、市」


「なんじゃ」


 市が顔を向けた。


 市の顔が近すぎる。


 日が横から当たっていた。頬に土がついている。額にも、髪の生え際に沿って埃が残っていた。袖の前には、乾きかけたものが黒く散っている。埃と、たぶん血である。


 拭ってはいない。束ねた髪は、後ろの半分ほどが解けている。落ちた髪が頬にかかっていたが、市はそのままにしていた。


 息が止まった。訊こうとしていたことが、頭から消えた。


 訊きたいことはいくつもあった。なぜ旗の下にいる者が大将だと分かったのか。どこであの薙刀を習ったのか。どれも口から出なかった。


「いつも、このような戦い方を」


 出たのは、それだけであった。


「いや、戦は初めてじゃ」


「いつも兄上に止められておった」


 言ってから、前へ向き直った。


 長政は、手綱を持ったままであった。指が動かない。手綱が少し緩み、馬が半歩だけ市の馬へ寄った。引き戻すと、馬は首を振った。


 道は変わらず続いている。後ろでは、誰かが戦の話をしている。また笑いが起こった。蹄が乾いた道を踏む音も、具足の金具が触れ合う音も、先ほどまでと変わっていない。


 長政は、自分が息を吐いていないことに、しばらくしてから気づいた。


 息を吐いた。


 もう一度、市を見た。初めて戦へ出たと言った者の顔には見えなかった。初めてでない者がどのような顔をするのか、長政も知らなかった。


「・・・」


 声が出なかった。出そうとしなかったのかもしれない。それすら分からなかった。


「戦とは楽しいものじゃな。次もわしにまかせよ」


 市は、こちらを見ていない。前を見ている。返事を求めてもいない。次があることも、その次に自分が出ることも、すでに決まっているような言い方であった。


 湖の方から風が来た。市の髪が、まとめたところから幾筋か落ちて流れた。市は手をやらなかった。


 笑っている。


 口元だけではない。目が細くなっている。湖へ落ちる日が横から当たり、頬についた土まで明るく見えた。


 長政は、市の横顔をずっと見ていた。


 初めて戦へ出た者の顔ではなかった。何の顔なのかも分からなかった。


 心臓が鳴っている。さっきから、ずっと鳴っている。目が離せない。市はこちらを見ていない。前を見て、笑っている。だから、見ていられる。


 村へ出した者は、そろそろ着いている頃である。


 泊まる家を三軒か四軒。入りきらない者は、納屋か寺へ入れる。


 米は持たせてある。足りないぶんは、村から出させることになる。味噌も塩も、馬に食わせる藁も要る。


 誰が何を出したか、その場で書かせる者もいる。帰ってから帳面に付け、浅井から返す。戦に勝ったことと、村から出させた米を返さなくてよいことは、別の話であった。


 手負いの者は、列の中ほどに集めてある。今夜のうちに傷を見る者を決めなければならない。


 長政は、それを順に考えた。考えながら、市を見た。


 市はまだ笑っていた。


 列の後ろで、誰かが大きく笑った。別の者が何か言い、何人もの声が重なった。言葉は届かない。笑いだけが街道を前へ伝ってきた。


 市が振り返った。後ろを見て、自分も笑った。何を言われたのか、聞こえていたのかどうかは分からない。


 それから前へ向き直った。


 鼻歌のようなものが、また始まった。


 長政も前を向き直した。


 顔が火照っている。


 村へ着いたら、先に手負いを下ろす。次に馬へ水をやる。米の数を確かめる。そのあとで、市の袖についた血を誰かに拭わせる。


 そこまで考えて、また市を見た。まだ鼓動が戻らない。


 日は湖へ落ちた。


 残った光で、湖の面が赤くなった。


 長政の顔も赤い。

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