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長政は、お市に勝てない ―敵陣へ駆ける妻を、浅井長政は裏で勝たせる―  作者: 島村 巡
【第一部 北近江編|第一章 六角】

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【第一章 六角】第八話 初陣 討ち取ったり

一五六〇年 春  近江 境目



 二日目の昼過ぎに、向こうが見えた。


 境目は、東に山があり、西に湖がある。そのあいだの平地に、街道と田がある。平地といっても、幅はさほどない。田はまだ水が入っていない。この時期なら、乾いた土の上を、そのまま馬で走れる。


 浅井の側は、街道を塞ぐように並んだ。左手に山が見える。数は九百に足りない。城下と近い村から出た者で、遠い村の分は間に合わなかった。具足のない者が三割ほどいる。矢は数えずに持ってきた。


 赤尾清綱は、先手の右の端にいた。馬に乗っている。ここからだと、列の全体が横に見える。中ほども、向こうの端も見える。


 前へ出るのは久しぶりであった。近ごろは城にいるか、久政の供で越前へ行くかであった。今朝、位置を決められたときに、長政が何も言わずにここへ置いた。理由は訊いていない。


 同じ列に、若い者が三人いる。三田村国定と、野村定元と、大野木秀俊である。大野木はいちばん若く、これが初陣であった。


 三人とも、朝から一言も口をきいていない。大野木は手綱を握り直すのを、何度も繰り返していた。


 列の中ほどに、市がいる。


 馬は栗毛である。小谷の城で乗っていたものと同じで、もとの乗り手は、今日は別の馬に乗っていた。


 城を出たときの格好のままである。袴に、たすき掛け。それだけであった。胴も草摺もない。槍が入れば、止めるものが何もない。持っているのは薙刀だけで、それを立てて構えていた。


 赤尾は、朝から二度そちらを見た。二度とも同じであった。二度目に、誰かに言わせるべきかと考えて、考えているうちに列が動いた。


 その横に長政がいた。


 長政は、朝からそこを動いていない。市の左に馬をつけて、そのまま並んでいる。当主の位置ではない。当主は後ろで見ているものである。誰もそのことを言わなかった。


 ◇


 街道の先、三町ほど向こうに六角がいる。


 もう並んでいた。顔までは見えない。分かるのは、数と、旗の形だけであった。二千は超えている。旗が三つ見えて、そのうちの一つが、ほかより大きい。


 双方が並んで、動かなかった。こういうときは、しばらく待つものである。使者が出ることもある。名乗りが上がることもある。赤尾は、それを何度も見てきた。待っているあいだに日が暮れたこともある。


 市が、前を見ている。馬の上で、少し身を乗り出していた。旗を見ている。三つのうちの、大きい一つを見ている。


「あれが敵じゃな」


 誰に言うでもなく、つぶやいた。


「六角にございます」


 長政は、前を向いたまま答えた。


「そうか。あの旗印じゃな」


 市が、手綱を持ち直した。


「長政、ついてまいれ」


「はっ」


 市が、馬の腹を蹴った。


 早かった。長政の返事が終わるより早いくらいであった。


「みなの者、お市様に続け」


 長政が言ったときには、市はもう半分ほど出ていた。


 赤尾は、自分も馬を出していることに、出してから気づいた。膝が勝手に締まっていた。列の全体が、同じように出ている。


 長政の声が、走りながら飛んだ。


「大野木、お市様の右じゃ。わたしの真似をせい」


「三田村、大将がどこにおるか、見ておけ」


「野村、替えを持って後ろにつけ」


 三人が、それぞれ位置を変えた。野村は、後ろへ回った。


 この数なら、馬上から声が届く。


 当たった。


 音が、まず前の方でした。木と木がぶつかる音である。それが横へ広がって、赤尾のところまで来た。


 馬が二頭ぶん前へ出た。そこで止まり、また押された。赤尾は鞍の前輪に胸をぶつけた。


 長政と大野木が、市の左右で槍を横へ払う。


 払われた側の兵が、体を開く。


 開いたところへ、市が入った。


 入って、止まらない。


 密集の中を、まっすぐ進んでいく。


 左右が開き続けている。


 開いているところだけを選んで進んでいるように見えた。


 しかし、選んでいるようには見えなかった。


 赤尾は遅れた。


 遅れたところへ、敵が来た。


 それを片づけ、また前を見た。


 市はもう、旗のところまで迫ろうとしていた。


 薙刀が動くたびに、日の光を返している。


 赤尾のいるところからでも、どこにいるかがすぐに分かった。


 旗の下に、馬に乗った男がいる。


 市は、そこへ向かう。


 速度を落とさない。


 薙刀を右へ低く寝かせた。


 旗の下の男の馬と、すれ違った。


 すれ違う間に、薙刀の柄が跳ね上がった。


 返った。


 下りた。


 三つの動きが、一つに見えるほど早かった。


 市の体は、そのあいだ一度も前へ傾いていない。


 傾かずに、腰から上だけが回った。


 馬上で、何かが当たる音がした。


 男が馬から落ちた。


 落ちてから、しばらく誰も動かなかった。敵も味方もである。


 何が起きたのかを見ていたのは、市のすぐ左右にいた者だけであった。


「敵が大将、討ち取ったり」


 市の声が、乱戦の中を通った。


 市は、馬上のまま止まっている。落ちた男を見下ろしていた。


 降りようとしない。薙刀は、刃先を下にして脇に抱えている。


 何人かが馬を降りた。仕留めにかかる。その中に長政がいた。


 長政は、降りてから止まった。


 顔が上を向いている。馬上の市を見ていた。市は前を見ていて、長政の方は見ていない。


 馬から落ちた男が、起き上がった。刀を抜いた。長政に斬りかかる。


 長政が斬った。


 抜く動きと振る動きのあいだに、見ていて分かるほどの間がなかった。


 踏み込んで、ただ刀を下ろした。


 相手が崩れた。


 長政は片膝をついて、その首を落とした。


 赤尾は、それを見ていた。


 当主が馬を降りて、自ら斬り、首まで取っている。作法としてはおかしい。首は、そういう役の者が落とすものである。


 長政が、落ちた首を掴んで立ち上がった。


 首を高く持ち上げ、声を張った。


「敵が大将、進藤賢盛の首、お市様が討ち取られた!」


 市の顔が、長政の持つ首に向く。


「ほう、こいつが大将か。わしが討ち取ってやったわ」


 名を、今聞いた顔であった。


「長政、はよう馬に乗れ。皆に知らせるぞ」


「はいっ」


 長政は首を近くの者に渡し、馬に飛び乗った。乗りながら返事をしていた。


 市が、長政の返事を待たずに駆け出した。


「みなもついてまいれ」


 長政が、市に遅れまいと駆け出した。それを見て、周りも駆け出した。市の周りにいた者から順に、外側へ広がっていく。


 赤尾は、速度を上げて長政の横についた。


「殿。よろしいので」


 訊くつもりはなかったが、口から出た。


「これがお市様の戦い方じゃ」


 長政は前を見たまま答えた。それから、大野木の方へ顔を向けた。


「大野木。わたしがおらぬときは、おぬしが落とせ」


「はっ」


 大野木の声が裏返った。


「敵が大将、進藤賢盛の首、わしが討ち取ったり」


 市の声が通った。


 乱れた中を、まっすぐ突っ切っていく。


 長政と大野木が左右を固め、三田村が前を見て、野村が後ろについた。赤尾は速度を落として後ろに下がり、その外側を走った。


 市は、薙刀を頭の上へ高く上げていた。


 上げたまま走る。振らない。


 振らないので、遠くからでも刃の向きが分かる。刃に日が当たり、光っている。土埃の中で、そこだけが動かずに走っていく。


 束ねた髪が解けかけて、後ろへ流れていた。頬に土がついている。返り血が、袖の前の方に散っていた。


 市が、笑っている。


 市の声が二度目に上がったとき、味方が沸いた。


 三度目のとき、敵の側が振り返った。


 振り返って、大きい旗が倒れているのを見た。


 そこからは早かった。


 前の方が下がり始める。下がった分だけ、後ろが押された。


 押された者が横へ逃げた。逃げ道ができると、そちらへ流れていく。


 その中を、市たちが駆け抜けていった。


 六角の一隊が崩れた。


 首を落としたのは長政である。斬ったのも長政である。崩したのは、市が走り回って触れて回った声であった。


 赤尾は、馬を止めて、それを見ていた。

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