【第一章 六角】第七話 兵はどこじゃ
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庭へ下りる沓脱ぎのところで、長政は足を止めた。
足が出なかった。何も飲み込んでいないのに、喉が鳴った。
市が、もう馬に乗っていた。
庭に、ほかのものが見えない。砂も、松も、石も、そこにあるはずのものが一つも目に入らない。口の中が乾いている。
厩の者が二人、少し離れて立っている。手綱を持っていない。轡も取っていない。持っていた者が離されたのか、初めから触らせてもらえなかったのか、二人とも同じ顔で突っ立っていた。
馬は栗毛の、家中の誰かが乗っているものである。今朝までは厩にいた。鞍は置いてある。腹帯を締めた者がどこかにいるはずで、その者もこの庭にはいない。
市の背筋がピンと伸びている。見慣れた馬が違って見えた。
庭には、市と厩の者しかいなかった。
「兵はどこじゃ」
馬の上から、庭の全体へ向けて言っている。誰か一人に言っているのではない。
「・・・は」
長政の声は、自分でも聞こえないくらいであった。
息を吸った。
このままでは、兵がいない。長政は周りを見回した。
城にいるのは番の者と、身の回りの者。合わせても三十に足りない。馬廻はいるが、具足は櫃の中である。
近在の者を呼ぶには、名主のところへ人を出して、名主から回させる。この時季は田の支度がある。村は人を出したがらないので、集まるのに二日はかかる。二日で集まるのは、多くて七、八百。
矢は蔵にあるが、数を確かめたのは去年の秋である。兵糧は、動かせる分がどれだけあるかを、蔵役に訊かねば分からない。
背後で足音がした。評定の間から、家臣たちが遅れて出てくる。廊下を渡ってくる音が、いくつも重なっている。
庭へ下りた者から順に、止まった。
誰も何も言わなかった。
日は西へ回っている。庭の白い砂に、馬の影が長く落ちていた。市は手綱を短く持って、馬の首を城の方へ向けている。背が立っている。顎が上がっている。落ちかけた日が、正面から当たっていた。
薙刀を、右手一本で立てていた。
石突きを鐙の脇に当てて、柄をまっすぐ上へ伸ばしている。刃が日を受けて、そこだけ白い。刃の影が、砂の上へ細長く落ちていた。
馬が一歩、横へ動いた。
市は手綱を引かなかった。膝だけで戻した。戻したときに、立てた刃がわずかも揺れなかった。
この庭で馬に乗っている者を、長政は今まで一度も見たことがなかった。ここは馬を出す場所ではない。馬は城の前で乗るものである。ここへ引いてくること自体が、誰もやったことのないことであった。
誰も瞬きをしていない。
長政は、自分の口の中が乾いているのに気づいた。指が冷たい。数えていたものが、頭の中でばらばらになっている。二日、七、八百、蔵役。順に並べてあったものが、並んでいない。
「兵はどこじゃと申しておる。はようせい」
長政は、ゆっくりと息を吸った。
二日はかからない。城下の者と、近い村なら、今夜のうちに集まる。数は足りない。足りないが、出るなら足りないまま出るしかない。
矢は数えている暇がないので、あるだけ持たせる。兵糧は三日ぶん。三日で足りなければ、帰ってくればよい。
長政は、庭の砂を蹴って前へ出た。
「戦じゃ、戦じゃ。支度をせい」
声が出た。今度は届いた。
止まっていた者たちが、一斉に動いた。動いてから、何をすればよいのかを考えている顔になった。
「兵を集めよ。はよう、はよう」
長政は走り出していた。
走りながら、すれ違う者に言いつけていく。城下へ人を出せ。名主へは馬で行け。
蔵を開けよ。矢はあるだけ出せ。具足の櫃を運び出せ。櫃の中で紐が切れておるものは後回しでよい。そのまま持たせよ。厩の者を呼び戻せ。馬は何頭出せるかを数えよ。
言いつけられた者が、また誰かを呼んでいる。庭に人が増えていく。増えた分だけ、声が重なって聞き取れなくなった。
誰も長政の顔を見ていなかった。
馬の方を見ている。
止めようとする者はいなかった。輿入れの翌日であるとか、六角の数が分からぬままであるとか、そういうことを言う者が一人もいない。言わなかったのではなく、その場に思い浮かんでいない。
長政は、走りながら一度だけ振り返った。
市は、まだ同じところにいる。馬の首の向きも変わっていない。日はさらに落ちて、砂の上の影が、庭の端まで伸びていた。




