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長政は、お市に勝てない ―敵陣へ駆ける妻を、浅井長政は裏で勝たせる―  作者: 島村 巡
【第一部 北近江編|第一章 六角】

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【第一章 六角】第七話 兵はどこじゃ

 ◇


 庭へ下りる沓脱ぎのところで、長政は足を止めた。


 足が出なかった。何も飲み込んでいないのに、喉が鳴った。


 市が、もう馬に乗っていた。


 庭に、ほかのものが見えない。砂も、松も、石も、そこにあるはずのものが一つも目に入らない。口の中が乾いている。


 厩の者が二人、少し離れて立っている。手綱を持っていない。轡も取っていない。持っていた者が離されたのか、初めから触らせてもらえなかったのか、二人とも同じ顔で突っ立っていた。


 馬は栗毛の、家中の誰かが乗っているものである。今朝までは厩にいた。鞍は置いてある。腹帯を締めた者がどこかにいるはずで、その者もこの庭にはいない。


 市の背筋がピンと伸びている。見慣れた馬が違って見えた。


 庭には、市と厩の者しかいなかった。


「兵はどこじゃ」


 馬の上から、庭の全体へ向けて言っている。誰か一人に言っているのではない。


「・・・は」


 長政の声は、自分でも聞こえないくらいであった。


 息を吸った。


 このままでは、兵がいない。長政は周りを見回した。


 城にいるのは番の者と、身の回りの者。合わせても三十に足りない。馬廻はいるが、具足は櫃の中である。


 近在の者を呼ぶには、名主のところへ人を出して、名主から回させる。この時季は田の支度がある。村は人を出したがらないので、集まるのに二日はかかる。二日で集まるのは、多くて七、八百。


 矢は蔵にあるが、数を確かめたのは去年の秋である。兵糧は、動かせる分がどれだけあるかを、蔵役に訊かねば分からない。


 背後で足音がした。評定の間から、家臣たちが遅れて出てくる。廊下を渡ってくる音が、いくつも重なっている。


 庭へ下りた者から順に、止まった。


 誰も何も言わなかった。


 日は西へ回っている。庭の白い砂に、馬の影が長く落ちていた。市は手綱を短く持って、馬の首を城の方へ向けている。背が立っている。顎が上がっている。落ちかけた日が、正面から当たっていた。


 薙刀を、右手一本で立てていた。


 石突きを鐙の脇に当てて、柄をまっすぐ上へ伸ばしている。刃が日を受けて、そこだけ白い。刃の影が、砂の上へ細長く落ちていた。


 馬が一歩、横へ動いた。


 市は手綱を引かなかった。膝だけで戻した。戻したときに、立てた刃がわずかも揺れなかった。


 この庭で馬に乗っている者を、長政は今まで一度も見たことがなかった。ここは馬を出す場所ではない。馬は城の前で乗るものである。ここへ引いてくること自体が、誰もやったことのないことであった。


 誰も瞬きをしていない。


 長政は、自分の口の中が乾いているのに気づいた。指が冷たい。数えていたものが、頭の中でばらばらになっている。二日、七、八百、蔵役。順に並べてあったものが、並んでいない。


「兵はどこじゃと申しておる。はようせい」


 長政は、ゆっくりと息を吸った。


 二日はかからない。城下の者と、近い村なら、今夜のうちに集まる。数は足りない。足りないが、出るなら足りないまま出るしかない。


 矢は数えている暇がないので、あるだけ持たせる。兵糧は三日ぶん。三日で足りなければ、帰ってくればよい。


 長政は、庭の砂を蹴って前へ出た。


「戦じゃ、戦じゃ。支度をせい」


 声が出た。今度は届いた。


 止まっていた者たちが、一斉に動いた。動いてから、何をすればよいのかを考えている顔になった。


「兵を集めよ。はよう、はよう」


 長政は走り出していた。


 走りながら、すれ違う者に言いつけていく。城下へ人を出せ。名主へは馬で行け。


 蔵を開けよ。矢はあるだけ出せ。具足の櫃を運び出せ。櫃の中で紐が切れておるものは後回しでよい。そのまま持たせよ。厩の者を呼び戻せ。馬は何頭出せるかを数えよ。


 言いつけられた者が、また誰かを呼んでいる。庭に人が増えていく。増えた分だけ、声が重なって聞き取れなくなった。


 誰も長政の顔を見ていなかった。


 馬の方を見ている。


 止めようとする者はいなかった。輿入れの翌日であるとか、六角の数が分からぬままであるとか、そういうことを言う者が一人もいない。言わなかったのではなく、その場に思い浮かんでいない。


 長政は、走りながら一度だけ振り返った。


 市は、まだ同じところにいる。馬の首の向きも変わっていない。日はさらに落ちて、砂の上の影が、庭の端まで伸びていた。

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