【序章 輿入れ】第六話 出陣じゃ
庭の方から、遠く声がした。誰かを呼ぶ声である。それに答える声があった。
厩の者を呼んでいる。名を二度呼び、三度目に答えがあった。それから、蔵の鍵を持っている者はどこかと訊いた。女の声である。
座の者たちは互いの顔を見た。何を確かめればよいのか分からず、また上座へ目を戻した。
久政が、畳についていた手を引いた。膝を戻して座り直し、袴の膝のあたりを一度払ってから、正面を向いた。
「なんじゃ、あれは」
誰も答えなかった。
「気でもふるうたか」
久政は、そこで息子を見た。
長政は、まだ襖の方を向いていた。
立ち上がっている。いつ立ったのかは、誰も見ていなかった。膝を立てかけた姿勢から、そのまま伸び上がるようにして立ったらしい。両手は、身体の脇で開いていた。
顔は廊下の先へ向いたままである。市の足音は、もう聞こえない。
「長政っ」
久政が呼んだ。
長政は振り向かなかった。久政がもう一度呼ぼうとした。
「出るぞ」
声が大きかった。
この座で、長政がこれほど大きな声を出したことはない。赤尾は、この男が元服する前から見ている。読み書きを教え、馬に乗せ、初めて具足をつけるところまで見てきたが、その間にも一度としてなかった。
「出陣じゃ」
長政はそう言って、座の方へ顔を向けた。だが、誰の顔も見ていない。目が部屋の中を一度だけ渡り、すぐに廊下の方へ戻った。
「馬を出せ。おのおの支度をいたせ」
それだけ言うと、長政は大股で敷居をまたいだ。
そのまま速足で廊下を進んでいく。今日この部屋へ入ってから、長政が動いたのは初めてであった。右へ折れ、庭の方へ下りていく。足音が、市の足音と同じ方へ遠ざかっていった。
座に残った者たちは、しばらく動かなかった。
やがて、一人が立った。
朝から出るべきだと言い続けていた若い者である。袴を直し、下座の方から小走りに出ていった。
次が立ち、その次も立った。年配の者が一人、まだ座ったまま襖の方を見ていたが、隣の者に袖を引かれて腰を上げた。
立った者には、それぞれ行く先があった。半日座って何も決められなかったが、決まった後に何をするかは、皆が前から知っている。
村へ人を出させる者がいた。この時季は田の支度があるため、村は人を出したがらない。まず名主のところへ走らせ、名主から村の者へ触れを回させる。その段取りを、廊下を歩きながら下の者へ言いつける声が聞こえた。
蔵を開けさせる者もいる。矢、縄、替えの草鞋。数を読み上げる声が庭の方から続いていた。同じ声が、品を替えるたびに違う数を告げている。
具足も出さねばならない。半年ぶりに櫃から出すものが多く、傷んだ紐を直す者と、その者を呼びに走る者が要る。
厩からは馬を引き出す声がした。城の前まで一頭ずつ連れていくらしく、蹄が石を踏む音が、間を置いて何度も鳴った。
誰かが荷を置く場所を訊いている。答える声が二つ重なり、どちらも途中でやめたあと、一方だけが初めから言い直した。
赤尾は立たなかった。
膝の前には、誰かの湯呑みが置かれたままになっている。隣も、その隣も空いていた。座っていた者の跡だけが畳に残り、部屋には二人しかいなくなっていた。
上座の脇に、久政がまだ座っている。
久政は、息子が出ていった襖を見ていた。口が動いたが、声にはならなかった。もう一度何かを言いかけ、それもやめた。
庭で馬が嘶いた。
久政は、そちらへ顔を向けた。障子越しに、人の影が幾つも横切っていく。どれも走っている影であった。
「・・・じゃが、おもしろい」
久政はそう言うと、膝に手をついて立ち上がった。朝から同じ場所に座り続けていたため、立つのに少し手間取った。
立ち上がって袴の裾を直すと、久政は、襖の方へ歩いていった。
城の前から、市の声がした。
「長政、はようせい!」




