【序章 輿入れ】第五話 何をちまちまと悩んでおるのじゃ
踵が板を叩いている。評定の間の横を、これほどの速さで歩く者はいない。
中央の襖が左右へ勢いよく開いた。
市が立っていた。
昨日の打掛ではない。小袖に袴で、髪は簡単に束ねてある。片手を襖の縁にかけ、そのまま開けきったところで止まっていた。
廊下の方が明るかった。西日が縁を通して差し込み、市の背に当たっている。部屋の中は、日が傾いた分だけ暗くなっていた。
そこに立つ市の姿が、濃く見えた。輪郭だけが光っている。
人ではないものが立っている、と赤尾は思った。
座の者たちが、一斉に振り返った。
三十人が同じ方へ身体を回すと、それだけで衣が鳴る。膝が畳を擦る音と、刀の鞘が畳に触れる音が、揃わずに続いた。誰かの湯呑みが倒れ、転がらずにその場で止まった。中身は残っていなかった。
「何をちまちまと悩んでおるのじゃ」
廊下から放たれた声が、部屋の奥まで通った。
誰も、すぐには返せなかった。
上座に近い年配の者が、膝を回して向き直った。
「御方様。ここは、おなごの参られる場ではござりませぬ」
市はその者を見ず、敷居をまたいで座の中ほどまで入ってきた。
二列のあいだには、人が一人通れるだけの道が空いている。膝と膝のあいだを通ることになるが、市は歩幅を狭めなかった。並んでいる者たちが袴を引いて場所を空け、空けてから、自分のしたことに驚いた顔をした。
半日ここに座っていた者たちは、皆、脚を崩している。その姿勢のまま見上げると、天井の低い部屋であるにもかかわらず、立っている市の頭は思っていたよりずっと上にあった。
上座の下には、端の丸まった絵図が広げられたままになっている。市は絵図を見ていなかったが、踏まずに脇を回った。
上座の前まで来ると、立ったまま長政を見た。
「長政殿、何を話しておるのじゃ」
「六角が攻めてまいったと」
長政が答えた。
座の者たちが長政を見た。
答えるのか、と赤尾は思った。そう思ったのは赤尾だけではない。列の者たちは皆、同じような顔で上座を見て、それから互いの顔を見た。
長政は、その視線に気づいていなかった。市を見上げ、答えた姿勢のまま止まっている。膝の上の手は開いていた。昨日、握ったまま離せなかった手である。
「攻めてきたなら、追い払うまでじゃ」
市が言った。
敵の兵はいくらか、と訊かれるものと赤尾は思った。どこまで来ているのか。どの道を来るのか。名代は誰なのか。訊かれれば答える用意はあったが、朝から誰も兵の数を知らないままであった。
訊かれなかった。
「わしは、出る」
市は短く、そう言った。
言い方に淀みはなかった。誰かに諮る形でも、許しを求める形でもない。出ると決めた者が、その決めたことを口にしただけであった。
年配の者が、もう一度口を開いた。
「御方様、それは」
そこで止まった。
何を言えばよいのかは分かっていた。当家の兵は当家の采配で動かすものである。輿入れの翌日に嫁いできた者が出るという話ではない。そもそも、兵を出すかどうかさえ決まっていない。
そう言えばよかった。だが、言葉は喉から先へ出なかった。
市は、続きを待たなかった。
誰かが腰を浮かせ、すぐにまた座った。立って止めに行こうとする者はいなかった。市の腕を掴むという形が、この座の誰にも思い浮かばなかった。
「はよう支度せい」
市はそう言うと、身を返した。
裾が回る。敷居をまたぎ、廊下へ出る。そのまま右へ曲がると、足音がまた速くなった。庭の方へ下りていく音となり、やがて遠ざかった。
襖は開いたままであった。
廊下の板と、その先の縁、庭の一部までが見えている。西日は、もう縁の端まで下がっていた。誰も襖を閉めに行かず、倒れた湯呑みもそのままになっていた。
赤尾は、上座の脇を見た。
久政は、市が出ていった襖の方を向いていた。片手を畳につき、膝を立てかけた姿勢で止まっている。いつそうしたのか、赤尾には分からなかった。振り向いたときには、すでにその形であった。
久政は、何も言わない。
長政も、まだ襖の方を見ていた。
いつのまにか膝が立ち、背筋も伸びている。立ち上がりかけたまま、そこに止まっていた。
息をしていないように見えた。しばらくして一度吐き、もう一度、深く吸った。
顔が赤い。
長政は、そのことに気づいていないようであった。




