【第六章 畿内】第八十話 公家の噂 よう分からんお人やわ
一五六六年 春 京 浅井屋敷
摂津の国衆は、浅井の屋敷の門で、懐の書付を確かめた。
芥川に近い郷の主である。冬のあいだに隣の郷との境の杭が打ち直され、田が半枚ほど削られていた。戻せと使いを出しても、昔からそこにあったと言う。郷の者は槍を持ち出そうとした。国衆はそれを止め、京へ来た。
芥川は、京から山崎を抜け、摂津へ入った先を流れる川である。近くの山には芥川の城があり、この春から浅井の兵が入っていた。
懐にあるのは、三好が同じ境を裁いたときの書付であった。書かれた境は変わっていない。だが、杭を戻させてくれる三好は、もういなかった。
門で名を告げると、遠侍へ通された。寺の者らしい男と、どこかの郷の者が先に座っていた。国衆も膝を揃えた。去年、浅井の軍勢が郷のそばへ来たときは、門を閉めて通り過ぎるのを待った。その家の門を、自分からくぐっていた。
名を呼ばれ、表の座敷へ入った。襖には山水が描かれ、縁の先には刈り込まれた庭木が見えた。奥に若い男が座っている。脇に控えた年かさの男が、浅井備前守にござる、と告げた。
国衆は頭を下げ、境の杭のことを申し上げた。長政は最後まで聞いてから、三つ訊きまする、と言った。
「境は、どこの田の、どの端にござりまするか」
国衆は田の名を挙げ、水路に沿った端だと答えた。年かさの男が帳面へ書き付けた。長政は、国衆の言葉が終わるのを待っていた。
「打ち直されたのは、いつにござりまするか」
「冬の、雪が降った折にござりまする。雪が消えますと、杭が田の中へ寄っておりました」
「前に、同じことで裁きを受けたことはござりまするか」
国衆は三好の書付を出した。年かさの男が受け取り、長政の前へ置いた。長政は開いて読み始めた。一行ずつ目が止まる。国衆は頭を下げたまま、読み終えるのを待った。
「三日、お待ちくだされ。浅井の者を見にやりまする。隣の郷の主にも話を聞きまする。京の宿は、ござりまするか」
国衆は顔を上げかけた。宿のことを訊かれたのは、初めてであった。三条に取ってあると答えると、長政はうなずいた。取次の者が敷居の外へ下がり、国衆を待っていた。
国衆は、まだ膝を動かさなかった。三好に訴えたときには、礼の銭を持っていった。ここでも、何かを出せと言われるはずであった。長政は次の書付を手に取った。国衆は頭を下げ直し、座敷を出た。
◇
再び屋敷へ上がると、年かさの男が待っていた。浅井の家の海北と名乗り、国衆の前に裁きの書付を置いた。長政の姿はなかった。
現地を見た者の報せと、隣の郷の主から聞いたことが記してある。三好の書付にある境も引かれていた。そのうえで、杭を元へ戻すよう命じてあった。国衆は読み返し、末の浅井の名を見た。
「同じ書付を、隣の郷へも渡してござる。兵を十人ほど付け申す。このとおりになるまで、郷に置いておきまする」
「・・・浅井様が、摂津の境を裁かれてよいので」
訊いてから、国衆は書付を膝へ置いた。差し戻されはしまいかと海北の顔を見たが、その手は伸びてこなかった。
「浅井は、御所より、京の儀を申し付けられており申す」
海北はそれだけ言った。国衆は書付を畳み、懐から礼の銭を出した。受け取った書付の脇へ、包みを置いた。
「これは、お納めを」
「要りませぬ。浅井は、取りませぬ」
国衆の手が包みの上に残った。海北は膝に手を置いたままであった。銭でないなら、何を出せばよいのか。国衆は包みを引き寄せたが、懐へ戻せなかった。
「では、浅井様に属せよ、ということにござりまするか」
「そうは申しておりませぬ。所領はお手前のもの。年貢もこれまでどおり。兵を出せとも申しませぬ」
国衆は膝の上の書付を見た。田の境については細かく書かれていたが、浅井に何かを差し出すとは、どこにもなかった。
「また揉め事があれば、お持ちくだされ」
海北が頭を下げた。国衆も下げ返し、銭を懐へ戻した。門を出ると、槍を持った兵が十人ほど待っていた。郷の名を告げると、一人がうなずき、ほかの者も立ち上がった。
◇
上京の公家は、家司に呼ばれて門へ出た。
摂津の荘から、米を積んだ駄が着いていた。公家は俵を数えた。摂津の荘から届くはずの分が、欠けずに来ていた。家司へ数え直させ、そのあいだに荘官からの文を開いた。
年貢を途中で押さえていた国衆が、今年から元のとおり京へ送ると認めたという。浅井より、公家の所領のものは公家へ納めよと沙汰があった。公家はその行へ戻り、もう一度読んだ。
「浅井に頼んだのと、ちがいますやろな」
「いえ。誰も頼んではおりませぬ」
家司が答えた。公家は文を裏返した。ほかには何も書いてなかった。駄が門をくぐると、落ちた瓦のかけらを踏んだ。家司が欠片を脇へ寄せ、蔵を開けるよう声をかけた。
屋根を直す銭もなかった。摂津と河内に荘を持ちながら、近くの国衆に上がりを押さえられていた。三好がいなくなると、一粒も届かなくなり、この冬には調度を売った。
それでも、浅井へは頼まなかった。
春の初め、殿上の間から、庭の浅井を見ていた。広橋殿の曖昧な言葉に、若い当主が念を押していた。あれが無粋やと、わからへんのやろか。そう言ったのは、自分であった。そばの者たちも笑った。
家司が、数は合っておりまする、と報せた。公家は文を畳んだ。蔵へ運ばれる俵を見送り、屋敷へ戻った。
浅井は礼を求めてくるのであろう。銭でなければ、御所への口利きか。庭に膝をついていたあの当主も、位があれば上がれるところが増える。頼んできたら、口を利いてやらぬでもない。
公家は使いを通せるよう、表の間を片付けさせた。雨漏りを受ける桶は隅へ寄せた。だが、訪れたのは屋敷へ出入りする商人ばかりで、浅井の名を告げる者はなかった。
◇
「ちょっと浅井へ、礼を持って行ってくれるか」
公家は手文庫から銭を出した。調度を売った残りであった。何も言ってこないままでは、落ち着かなかった。あとから何を頼まれるか分からぬより、礼を済ませておく方がよい。
家司は銭を包んで出ていった。戻ってきたときも、同じ包みを持っていた。公家の前へ置くと、受け取ってもらえませなんだ、と頭を下げた。
「どういうことや」
「海北という者が出てまいりまして。浅井は、取りませぬ、と」
公家は包みを取った。重さは、渡したときのままであった。家司は顔を上げずに待っている。公家は包みを膝へ置いた。
「御所のこととか、位のこととか、何か言われたのとちがうんか」
「何も申しておりませなんだ」
公家は銭を手文庫へ戻しかけた。蓋を開けたまま、家司へ目を戻したが、それ以上の報せはなかった。
◇
殿上の間でも、荘の上がりが話になっていた。
「うちも河内から来ましたえ」
そう言った者へ、浅井に頼んだのかと隣の者が訊いた。そんなもんするかいな、と返す声が高くなった。公家は、その二人から庭へ目を移した。浅井の当主が膝をついていたところが見えた。
「礼も受け取らはらへんし」
「・・・どうせ位が欲しいんやろ」
公家は口を開きかけ、閉じた。自分の家へも、そうした使いは来ていない。ほかの者も、口利きを頼まれたとは言わなかった。
「よう分からんお人やわ」
春の初めに一緒に笑った者が、袖を口へ当てた。今は笑っていなかった。公家も黙っていた。分からぬままで、米は蔵に入っている。
屋敷へ戻ると、公家は紙を出した。河内の荘からは、まだ上がりが来ていなかった。国衆が押さえたままである。
浅井備前守殿。
宛名を書き、筆を止めた。北近江の家へ、こちらから頼む文であった。公家は紙を手元へ寄せ、河内の荘の名を書き始めた。
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