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長政は、お市に勝てない ―敵陣へ駆ける妻を、浅井長政は裏で勝たせる―  作者: 島村 巡
【第二部 畿内編|第六章 畿内】

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【第六章 畿内】第七十九話 松永の探り 奥のことは何も

一五六六年 春  大和 多聞山城



 松永久秀は、本丸の座敷で、木津の村々へやった者の報せを聞いていた。


 浅井の兵が京へ引き上げるところも、村の者が見ていた。当主のまわりに騎馬が十ほど、そのあとに徒の兵と糧の駄が続いた。黒い馬に乗った女は、帰る列にもいなかったという。


「あとから来た者もおらんのか」


「おりませなんだ。兵が去ってからも、村々を回って確かめましてござりまする」


 松永は男を下がらせた。小谷へやった者からも、奥方が帰ってきたという話はないと報せがあった。城下では、当主と共に京にいると言っている。南山城にはいなかった。小谷へ帰ったのでもなかった。


 廊下で待っていた男を呼び入れた。京に住まわせている手の者である。三好が京を押さえていた頃から使ってきた。男は膝をつくと、町の様子から話し始めた。


 辻に兵が立ち、夜も篝火が消えない。逢坂から京への道では、関の横木が外されていた。松永がどこの関か訊くと、男は一つずつ答えた。誰の関であったかまで調べていた。


「屋敷へ来る者は」


「摂津や河内から、国衆が参っておりまする。芥川のあたりの者が、浅井に裁いてもらったと。礼は取られず、兵を付けられて郷へ戻ったそうにござりまする」


 松永は、その郷の名を訊いた。男は名を挙げ、隣の郷との争いだと続けた。訴えた者が座敷で何を訊かれ、何と答えたかまで話した。松永は途中で手を上げた。


「奥はどうなんじゃ。女はおるのか」


 男の口が止まった。松永は手を下ろし、返事を待った。さっきまで淀みなく話していた男が、畳へ目を落としていた。


「屋敷の奥のことは、分かりませぬ」


「分からんではすまんわ。町へ出る女中もおるじゃろ」


 台所の者は、買い物に出てくるという。男は売り手を通して訊かせていた。だが、奥方のことになると、知らぬと言う。よそから話しかけても、同じであった。


「もとから口の重い者ではないのか」


「物の値の話ならば、よう喋りまする。高ければ文句も申す。奥方の話を向けると、それきりにござりまする」


 売り手とは話をする。屋敷に仕える者だということも隠していない。松永は男をそばへ寄せ、声を落とした。


「飯のことも、着るもののこともか」


「奥のことは何も。誰がおそばに付いておるかも、申しませぬ」


 表の座敷で交わされた言葉は拾える。国衆が帰れば、郷まで追って話を聞ける。それが、同じ屋敷の奥へは届かなかった。松永は男の顔を見た。この男が何も掴めずに戻ったことは、これまでなかった。


「去年は、馬に乗って町へ出ておったじゃろが」


「妙覚寺のあたりで見たという者はおりまする。なれど、この春に見たという者は、見つかりませぬ」


 松永は男を下がらせかけ、呼び止めた。まだ確かめることがあった。奈良坂の下で止まった浅井の旗が、目に残っていた。


「木津の村は、浅井に従ったのか」


「村から人が参ったという話は、聞いておりませぬ」


「銭や米を出せとも言うておらんのか」


 男は首を振った。松永は膝へ手を置いた。兵を出し、こちらを退かせておきながら、取れる村を取らずに帰っている。南山城が欲しかったのなら、村の者に次からどこへ年貢を運べと言っておけばよい。浅井は、それもしていなかった。


 松永が引いたあと、奈良坂の手前で待っていた若い当主の姿が浮かんだ。取ろうとする者なら、使いを寄越す。松永が退いた分だけ、先へ出る。あの男は馬を進めず、兵も坂を上らせなかった。


 誰かに、そこまでを申し付けられていたのか。


 松永は文箱を引き寄せた。義兄からの返書が入っていた。広橋の家の当主であり、武家の用を御所へ取り次ぐ者である。大和の支配を認めてもらいたいという頼みも、この義兄を通していた。


 年明けに届いた返書の上へ、新しい返書が重ねてあった。松永は新しい方を開いた。大和のことは、まだ時がかかる。読み終え、下の文も開いた。どちらにも、待てとしか書いてなかった。


「御所の門には、浅井の兵がおるんじゃな」


「はい。築地の修繕も続いておりまする」


 男が答えた。松永は新しい返書を持ち直した。南山城から多聞山へ戻ったあと、京の義兄へ出した文には、浅井の名を書いた。町が静かになったと聞くが、御所の方はいかがか。大和の頼みのあとに、そう添えた。


 返書には、京は静かになった、とあった。そこから末まで読み直した。浅井の二字は、なかった。


 門の兵も、築地の職人も、義兄は見ているはずである。浅井のことを尋ねられて、京のことだけを書いてよこした。松永は文を膝へ置いた。京の男は、次を待っていた。


 将軍はいない。三好が浅井に命じられるはずもない。畿内であの当主に兵を出せと言うなら、御所か。京の近くを鎮めよと言われたのなら、奈良坂で止まったことも、何も取らずに帰ったことも、筋が通る。


 自分は、大和を認めてもらう返事さえ待たされている。その御所が、京へ入ったばかりの北近江の当主には、兵を出せと命じているのか。


 松永は古い返書を新しい方の脇へ置いた。浅井のことを尋ねず、大和の頼みだけを書いて出した文にも、同じ返事が来ていた。義兄は用を取り次がぬとは言わない。取り次いだ先で、何と言われたかも書かない。


 松永は二通を畳み、文箱へ戻した。新しい文が上になった。男は下がってよいかと訊いたが、松永は返さなかった。女のことが、残っていた。


「薬師は。屋敷へ呼ばれておらんか」


「調べておりまするが、奥方を診たと申す者は、おりませぬ」


「当主と仲が悪いという話は」


 男は、今度も首を振った。家中の者が町で酒を飲むこともある。だが、奥方を語ったという話は掴めなかった。松永は親指を口へ運び、爪を噛んだ。


 病なら、誰かが薬を取りに行く。不和なら、そばにいる者が漏らす。どちらの話もない。京にいないのなら、小谷の者はなぜ京にいると言うのか。松永は指を離した。御所のことと違い、どこにも手がかからなかった。


「引き続き、探れ。見た者がおらんか、まずそれじゃ」


 男が下がると、松永は座敷の奥へ移った。絵図には、木津の川と奈良坂が描いてある。指を坂の手前へ置いた。ここへもう一度出れば、浅井も出るか。女が来るかどうかを、今度こそ見られるか。


 だが、牢人を討つと言って同じところへ出れば、また境目を鎮めると言われる。松永は指を坂から大和の側へ移した。筒井の者を追うなら、大和を押さえる松永の用である。京を騒がせたとは言わせずに済む。


 筒井の城の印があった。城には松永の兵を入れてある。追い出した小僧は生きており、その家の者たちも散ったままであった。


 松永は筒井の印に指を置いたまま、開いた障子の向こうを見た。庭では、家臣が一人、こちらへ頭を下げていた。呼べば、すぐに来るところにいた。


 筒井の者を追うことまで、浅井は止めに来るのか。出てくれば、女がいるかを見られる。出てこなければ、筒井に従う者を討っておける。牢人を追って坂を越えたときとは、違う。


 今また出れば、浅井は初めから構える。京へ戻った兵が構えを解くまで、待つ。松永は庭の家臣から、絵図へ目を戻した。


 松永は家臣を呼ばなかった。指を離すと、筒井の城の印が残った。

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