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長政は、お市に勝てない ―敵陣へ駆ける妻を、浅井長政は裏で勝たせる―  作者: 島村 巡
【第二部 畿内編|第六章 畿内】

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【第六章 畿内】第七十八話 御所の庭 呼んだ覚えがないが

一五六六年 春  京 浅井屋敷



 海北綱親が長政の部屋へ入ると、市が薙刀の柄を拭いていた。


 壁に背をもたせ、鞘に納めた薙刀を膝へ横たえている。倉から出してよいのは、この部屋で手入れをするときだけであった。柄の端まで布を動かすと、また手元へ戻して拭いた。南山城へ発つ朝より、頬に少し色が戻っていた。


 廊下に小さい足音がした。茶々が敷居から顔を出し、市の膝の薙刀を見た。


「ははさま、わらわもする」


「よいぞ。ほれ」


 市は袖から布を一枚出し、茶々へ渡した。茶々は市の隣へ座り、石突きのあたりを拭き始めた。


「端までじゃ。端まで行ったら、戻して、また拭く」


 市が布を柄の端まで動かすと、茶々も自分の布を端まで動かした。戻すところで、市の手を見てから戻した。


 長政は灯を机へ寄せ、紙に筆を走らせていた。海北が膝をつくと、書き終えたところへ指を置き、紙を寄せた。


「読んで、数に違いがないか見てくれ」


 海北は紙を取った。南山城へ五百を出し、境目を押さえたことが書いてあった。大和の兵は奈良坂へ引き、浅井は坂から先へ入らなかった。その下に、摂津、河内、山城、丹波、和泉から届いた訴えの数と、どう扱ったかが並んでいた。


 海北は帳面を開いた。南山城の村で聞き取った話の書付も挟んである。どの村が荒らされ、何を失ったか。長政の紙には、そのことも記されていた。


 帳面には、まだ扱いの決まっていない訴えもあった。海北が頁を繰るあいだ、長政は筆を持ったまま待っていた。市の布が、柄を往復していた。


「違いはござりませぬ」


 紙を返すと、長政は灯へ寄せて読み直した。末に書き添え始めたところで、市が顔を上げた。


「長政、またなにか書いておるのか」


「もう、済みまする」


「毎晩、紙ばかりじゃの」


 市は薙刀を膝の上で持ち直し、また柄を拭いた。何を書いているのかは訊かなかった。南山城から戻ったときも、戻ったか、と言っただけである。海北はそばにいたが、戦がどうであったかを、市が尋ねるのは聞いていなかった。


「明日、参内する」


 長政が紙を畳み、上包みをかけた。海北は帳面を閉じ、長政を見た。


「御所から、お呼びが」


「ない。これを差し上げに行く」


 長政は上包みの表に筆を入れた。市は柄を拭く手を止め、布を膝へ置いた。


「天子様のところじゃな。わしのことも申しておけ」


「わらわのことも」


「そうじゃな。茶々のこともじゃ」


「・・・はい」


 市はうなずき、布を取った。長政が天子様の顔を見たことは、一度もない。庭の砂に膝をつき、公家に申し上げるだけである。海北は何も言わず、帳面を抱えて部屋を出た。


 敷居を越えるとき、茶々はまだ、市の隣で石突きを拭いていた。


 ◇


 翌日、海北は、長政の後ろについて、御所の門をくぐった。


 御所の門の脇では、新しい築地の土が乾いていた。崩れたところを塞いでいた板はなく、職人たちは別のところへ足場を移していた。長政は庭へ進み、砂の上に膝をついた。海北も端へ下がった。


 取次の者は、呼ばれて来たのかと確かめた。長政が書付を差し上げに来たと答えると、奥へ入っていった。戻ってきても長政を上げることはなく、そのまま待つようにと言った。


 広橋国光が縁へ出てきた。座ると、庭の長政を見下ろした。


「麿は、そなたを呼んだ覚えがないが」


「はい。南山城の境目を鎮めたこと、書付にしたためてまいりましてござりまする。畿内の訴えを扱うたことも、あわせて」


 長政は懐から上包みを出し、前へ置いた。取次の者が庭へ下り、拾い上げて縁へ運んだ。国光は受け取ったが、表を見ただけで開かなかった。


「これを、麿にどうせよと」


「御覧いただければ、それで」


 国光は上包みから長政へ目を戻した。長政は頭を下げたまま、次を申し上げなかった。


「返事は」


「要りませぬ」


 国光の口が開きかけ、閉じた。上包みを膝へ置き、庭の長政を見下ろしていた。


「これより、事が済むたびに、書付を差し上げまする」


「事が済むたびにとな」


 国光が長政を見た。取次の者は、縁の脇に控えたままであった。


「はい。何があったかを、お知らせ申し上げまする」


 国光は包みの端へ指をかけた。海北は開くのを待ったが、指は止まっていた。長政にも次の言葉はない。庭を風が渡り、海北の前を砂が流れた。


「・・・持って参るのは、そなたの勝手じゃ」


 長政は砂に額をつけた。ほかには何も申し上げず、立って門へ向かった。海北もあとに続き、庭を出るところで振り返った。


 国光は上包みを開かないまま、縁の奥へ持っていった。


 ◇


 三条の布屋の主は、御所から戻ると、受け取った銭を帳面の上に並べた。


 修繕に使う幕布の代であった。大工の棟梁に頼まれ、自分で届けてきた。築地にはまだ新しい土の色が残り、職人が屋根に瓦を載せていた。門の浅井の兵は、棟梁の名を告げると通した。棟梁は布を確かめ、約束どおりの額を払った。


 誰が修繕の銭を出しているのか、棟梁は言わなかった。主も訊かなかった。銭をしまい、幕布の勘定をつけていると、大津へやった手代が戻ってきた。駄には近江の麻が積んであった。


「早かったのう」


「関で止められませなんだ」


 主は帳面をめくった。逢坂では横木が脇へ寄せてあり、関の小屋に誰もいなかったという。手代は駄を止め、番の者が戻るのを待った。


「呼んでも、誰も出てまいりませぬ。そのまま通りましたが、あとから追ってくる者もおりませなんだ」


 山科でも、横木が外されていた。小屋ごとなくなった関もあった。日ノ岡の峠には浅井の兵が二人立っていたので、手代は駄を引く手を緩めたという。兵は荷を見ただけであった。


「そこで取られたか」


「いえ。止まれとも言われませなんだ」


 主は筆を持ったまま、手代を見た。前には関銭が足りなくなり、途中で引き返してきたことがある。今度は、頼んだ麻を残らず積んでいる。


「関銭は、いりませなんだ」


 手代は、持たせた銭を戻した。主は受け取り、関銭の欄へ筆を運んだ。そこで止めた。書くことがなかった。手代に荷を下ろすよう言い、帳面を閉じた。


 日が落ちかけていた。主は板戸を半分だけ閉め、店先へ灯を出した。去年の暮れには、この時刻になる前に閂を二本かけていた。二軒隣の米屋に押し込みが入り、手代が斬られた。夜に物音がしても、戸には触れなかった。


 春から、辻に浅井の兵が立つようになった。篝火は朝まで消えず、番は替わっても兵はいなくならなかった。主はしばらく様子を見てから、夕方の客を待つようになった。


「この布を、一反」


 顔を上げると、兵が立っていた。刀を差し、店の奥の棚を見ていた。主は指された布を下ろした。兵の前へ広げると、男は端をつまんで確かめた。


「国の母に送るんじゃ。これでよい」


 主は布の端を揃えかけた。男は受け取ろうとせず、懐へ手を入れた。


「いくらじゃ」


 主は代を告げた。男は銭を出し、台の上に並べた。主が数え終わるまで、布には手を出さなかった。


 包んで渡すと、男は片手で受け取った。主は店先まで送り、辻へ戻っていく背を見た。別の兵が篝火の薪を組んでいた。男が声をかけると、その兵は顔を上げて、布の包みを見た。


 主は台へ戻り、置かれた銭を集めた。以前、三好の兵がこの店から布を持っていったときは、代を訊きもしなかった。主は棚から布を下ろし、帰るのを待つほかなかった。


 去年、この通りを黒い馬の女が駆け抜けた。浅井の軍勢は、そのあとから入ってきた。女房にどうなるかと訊かれ、主は、主が替わるだけじゃ、と答えた。


 店先で声がした。仕事帰りの職人が、晒はあるかと訊いていた。主は灯を台へ寄せ、棚から布を下ろした。通りの向こうで篝火に火が入り、客の手元まで明るくなった。


 客が帰っても、主は戸を閉めなかった。

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