【第六章 畿内】第七十七話 南山城の松永 数のことではないわ
一五六六年 春 山城 南山城
松永久秀は、木津の川沿いの陣で、村の者たちの礼を受けていた。
牢人どもは、松永の旗を見ると散った。逃げ遅れた者を討ち、残りを山へ追い込むと、荒らされていた村々から人が来るようになった。大和の外にも、松永が守ったと覚えさせておける。村の者を帰したところへ、物見が戻ってきた。
「申し上げまする。浅井が、出てまいりました」
「なんじゃ、浅井じゃと。数は」
「五百ほどにござりまする。当主が京から下り、淀の城の兵を連れて、川沿いを来ておりまする」
松永は床几の上で身を起こした。奈良の城で絵図をなぞったとき、淀は京の口を塞いだだけと見ていた。その口から、当主が兵を連れて出てきた。
浅井の地を侵したわけではない。京へ向かったのでもない。松永は牢人を追い払っていただけである。出てくる筋はないはずであったが、五百なら、こちらを討つつもりでもあるまい。
「女はどうじゃ」
物見が顔を上げた。松永はその顔を見て、重ねて訊いた。
「浅井の女じゃ。黒い馬に乗っておる。おったか」
「見えませなんだ。当主のまわりに、騎馬が十ほど。先頭は、当主の旗にござりました」
浅井が出てくれば、あの女も来る。奈良ではそう見ていた。松永は物見の顔を見たまま、しばらく黙っていた。
「列の終わりまで、見たのか」
「いえ。こちらへ向かってまいりますので、先にお報せを」
物見は頭を下げた。まだ、全部は見ていない。十ほどの騎馬とは別に、後ろに控えているのかもしれない。
「もう一度、見てこい。列の後ろも見落とすなよ。それから、淀へ一人やれ。兵が出るとき、黒い馬がおらなんだか、あのあたりの者に訊いてこさせよ」
筋がないのに、浅井は出てきた。出てきたのに、女が見えない。物見を走らせ、松永は家臣を呼んだ。
「本陣のまわりの守りを、厚うせい。槍の者を、わしの前に二重に並べよ。横と後ろにも、人を置け」
「浅井は、五百にござりまするが」
「数のことではないわ。あの女は、大将だけを取りに来るんじゃ。五百と当たっておる隙に、わしのところへ駆けてくるやもしれぬ」
家臣は口を閉じた。松永は、その向こうに続く川沿いの道を見ていた。
「見えぬのが、一番怖いわ」
家臣が列へ走っていった。本陣の前に槍が並び直され、川へ下りるところにも兵が立った。松永は床几から立ち、槍を持つ者たちの肩越しに道を見た。
昼を過ぎると、村々のあいだに浅井の旗が現れた。数は、物見の報せと変わらなかった。徒の兵が前に並び、その奥の大きな旗のまわりに、騎馬が固まっている。あそこに当主がいるのであろう。松永は列を端まで見たが、黒い馬は見当たらなかった。
旗は、並んだまま動かなかった。奥から騎馬が一騎出ると、松永はそちらへ向き直った。使いか。馬は前の列まで進んだが、そこで止まった。槍を持つ者が顔を上げ、騎馬の者の話を聞いていた。やがて馬は、本陣へ戻っていった。
何をしに来たのか、言いに来る者はいなかった。松永は川岸へ目を移し、村の家の陰を見た。浅井の兵の向こうに、道が隠れていた。淀へやった者も、まだ戻らない。並んだ槍の穂先が、ときどき日に光った。
日が傾き始めたころ、戻った物見が膝をついた。列の後ろには糧の駄が続いているだけで、別に控えた騎馬の群れはないという。松永は山裾を見た。木のあいだは暗く、ここからは奥まで見えなかった。
「山の方はどうじゃ」
「見てまいりました。人の通った跡は、ござりませなんだ」
松永はうなずいて下がらせた。家臣が寄り、本陣の前の槍を指した。
「では、こちらの者も前へ」
「動かすな」
家臣の手が止まった。松永は、物見が見てきたという山裾から目を離さなかった。家臣は槍の者へ手を下げてみせた。列は、そのまま残った。
浅井の旗が、前へ動いた。
松永は馬に乗り、兵を並べさせた。浅井の槍が当たり、こちらの列を押した。押されたところが下がると、そこへまた前に出てくる。強くも弱くもない、どこの家とも変わらぬ当たり方であった。奥の本陣は動かず、前の列とのあいだを伝令が往復していた。
当主が本陣に構え、兵を動かしている。そこにも変わったことはなかった。松永は押し合いの端へ目を向けた。去年の三好は、正面で当たっているところへ、あの女に駆け込まれたと聞いている。
槍の列が押し戻し、浅井の兵が重なって見えた。その向こうが見えなくなると、松永は馬上で身を起こした。川岸には誰もいない。家の陰から出てくる者もいなかった。
何も来なかった。
牢人を追って歩き回った兵には、疲れがあった。押されるたびに下がり始めたが、松永は無理に止めなかった。牢人は片付いている。ここで浅井と戦い続ける用はなく、守らねばならぬ城もない。
「少しずつ引け。奈良坂へ戻る。本陣のまわりは崩すなよ」
兵を下げ、村を抜けた。浅井の槍が押してくるたびに、松永は列の外を確かめた。前の村を出ても、次の村を抜けても、本陣の守りへ駆けてくる者はいなかった。
奈良坂の下で、松永は馬を止めた。
坂を越えれば大和である。振り返ると、浅井の槍は坂の手前で止まっていた。奥の旗も動かない。上ってくるつもりなら、ここで兵を並べ直さねばならぬ。松永は手綱を握ったまま、浅井の列を見ていた。
伝令が本陣へ入り、また前の列へ戻っていった。そのあとも旗は動かなかった。村を返せという使いも来ない。討つでも、何かを取るでもなく、境目を押さえたところで止まっている。
そのためだけに、京から当主が出てきたのか。
松永は待った。前に並んだ槍の向こうで、騎馬の者が本陣へ寄っては離れていた。こちらへ向かってくる者は、一人もいなかった。
足もとでは、下がってきた兵が槍の石突きを地につけ、肩で息をしていた。家臣が坂を指し、松永の顔を見た。松永は手綱を引き、坂へ向きかけた馬を止めた。家臣は兵を道の脇へ寄せ、次の下知を待った。
淀へやった者が、ようやく追いついた。馬を下りると、膝をつき、息を整えてから口を開いた。
「舟の者にも訊きましてござりまする。淀の城を出た兵の中に、黒い馬の女は見ておらぬと。当主は、騎馬と駄を連れて、京から下ってきたそうにござりまする」
「京の屋敷の方はどうじゃ。おったか」
「そこまでは、まだ」
松永は口を閉じた。淀で見ていないからといって、京に残ったと決まったわけではない。浅井の列へ目を戻すと、本陣の旗が風を受けていた。旗の下にいる者の顔までは、見えなかった。
「殿。いかがなされまするか」
家臣が馬を寄せてきた。松永は浅井の列をもう一度見てから、馬の首を返した。
「大和へ戻る。坂の上に物見を残せ。浅井が引くまで見張らせよ。引くとき、後ろから何か出てこぬか、よう見ておけ」
家臣は頭を下げたが、松永はまだ行かせなかった。木津の村々へも人を回し、浅井が来る前にも黒い馬を見なかったか、訊いておくよう命じた。
坂の半ばから見下ろすと、本陣の旗の下に、馬に乗った若い男がいた。兜はかぶっていなかった。まわりの者が、その男へ寄っては離れていく。浅井の当主であろう。その馬は、本陣から一歩も出ていなかった。
松永は前へ向き直った。女は、最後まで現れなかった。なぜいないのかは分からないまま、坂を越えた。
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